4.








鳴り止まないチャイムに儚い夢は破られた。

「……うわッ?!」

飛び起きた拍子に火村からの手紙がぱらりと床に滑り落ちた。
胸の上に乗せたまま、ソファで眠ってしまったらしい。咄嗟に時計を見る。
帰宅してからたいして時間は経っていないことから、束の間の眠りだったことを知る。
中途半端なところで起こされ気だるい。
重い体を引きずって、倒れ込むようにインターフォンへ取り付いた。

「……どなたですか」

答える声も自然、ぶっきらぼうになるというもの。
しかし訪問者の声を聞くやいなや、低血圧気味の頭に一気に血が上った。

『アリス! とっとと開けてや!』

殆ど叫び声に近いハスキーヴォイスがスピーカーを震わせた。
紛う事無き、朝井さんのそれだ。
そういえばここを陸の孤島にして久しい。ケータイは切りっぱなしで家の電話も繋げてないから、いらぬ心配をかけたのかもしれない。

「す、すぐっ」

平身低頭で玄関ドアを開けると、夜気を纏った黒尽くめの彼女がなだれ込んできた。スピーカー越しに聞いた以上の勢いで、怒声を浴びせられる。

「このアホが、連絡ひとつ寄越さんとすっぽかしてからに。電話も繋がらんし、心配するやんか」

まったく身に覚えがないことで責められているようだが、迫力に負けてしまう。

「すみません。ええと、お約束してました……か?」
「しまいにゃ怒るで。先月電話で話したろ? 英都と平安神宮の夜桜観て、あたしんちで飲むって」

どんだけアンタの母校の前で待った事か、とぷりぷりしている彼女を前に、私は何と言っていいものか困惑した。
約束したなどと、全く記憶になかったのだ。まただ、と額を手のひらでこする。
本来の意識を取り戻して以来、ここ3ヶ月半の記憶が急速に薄れ始めているのだ。スケジュールに記していないものは、雨が道を洗うがごとく頭の中から何処かへと流れ去っていく。
1日ごとに、10日分くらいは忘れている。

「ちょっと昨日まで体調崩してまして。うっかりしていました、申し訳ないです」

こうなったら、方便を使って謝るほかない。「実は神に記憶操作されて…」なんて壮大なホラをかます余裕はなかった。
寝起きということもあり、萎れ窶れた私の顔は哀れを誘うに効果的だったらしい。
しびしぶといった様子で「しゃあない子やね…」と溜め息まじりに許しの言葉を吐いた。気が抜けたように壁に凭れた姿に、本当に心配して駆けつけてくれたのだと気付き改めて恐縮する。


ふと、朝井さんは何かに気付いたように「ちょっと」と言うと、私の耳朶に触れた。

「アリス、ピアス穴どうしたん」
「え?」

どうしたと言われても、私はそんなものをつける趣味はなかった。だから何のことかサッパリ分からなかった。

「塞がってるわ。というより、跡もないで」

朝井さんはなお耳たぶをくりくりといじっている。穴をあけた痕跡を探すかのように。

「ちょ、ちょ、ちょ、待ってください。ひゃっ、は」

耳は生来弱いのだ。くすぐったさに身をよじるようにしてその手から逃れる。
すっかり腑抜けた私と正反対に、朝井さんは眉をひそめ小首を傾げている。

「おかしい。前にピアスしてるのを見た気がするんやけど」
「さぁ。ピアスっぽいアクセサリーしてたんやないですかねぇ?」

先日整理した時、確かに1対のピアスが出てきた。していたのは私以外の誰でもないだろうが、つけるべき穴がなかった。
過去していたのかもしれないが、それも定かではない。なにせ端から忘れているし、私の持ち物は下着から化粧品まで神の手によって入れ替えられている。小道具のひとつだと思って放っておいた。

「自分の事やろ。痴呆にはまだ早いで」
「ああ…いや、まあ」
「と、こんな時間や。アリス、遠いとこからはるばる誘いにきた先輩を、いつまでここに立たせておくん?」

にっこり笑った彼女は、ブーツの踵を鳴らした。












「次の休みには雨が降るかもしれへんで」と軽く脅されたからではないが、夜も昼もない自由業同士だ。時間帯など関係なく、約束は履行される。

というわけでブルーバードを走らせ、京都に来てしまった。
助手席の朝井さんは軽く船を漕いでいる。そのへんのマナーは自由だ。
どこか霞がかって闇に沈みきらない春の夜。
鬱蒼とした林の向こうや、杜の間から天を衝く光があれば、それはたぶん夜桜見物のためのライトアップである。
いくつか桜を擁する園を行き過ぎ、目的地に辿り着く。
懐かしの我が母校だ。

「さすがに無理でしたね」
「大学院まであるとこなんやから、泊まり込む人間がおってもよさげやのに」

ぐるり、敷地周辺を回ってみたが、門扉ががっちりと閉まっていた。
マッドな研究者や、世界を相手に開発競争している者はおそらくいないので、それは期待できない。
存在してもセキュリティやら経費の関係で、帰宅させられるのではないだろうか。卒業生とはいえそのへんのルールは不確かだ。




やむなく車を近場のパーキングに停め、哲学の道へと流れた我々は、ワインボトルを1本ずつ手にしてそぞろ歩いている。
どこからどう見ても、アル中の女2人連れが花見酒に興じている絵にしかならない。
桜並木はライトアップに乏しく、雰囲気も閑寂たるものだ。
それでも夜歩きの影が絶えないのは、24時間オープンの名所故か。
ラッパ飲みしているせいか、いつもより酔いが早い気がする。
「ちょっと休憩しましょう」と朝井さんの袖を引っ張った。
ベンチに腰を落ち着け、目の前を流れる暗い水を眺める。
盛り上がっては砕ける光の反射を見つめていると、10年前も同じ事をしていたような気がした。
隣の気配が動いたので回想は一旦閉じた。

「アリス。見知らぬ他人からの電話にだって出るアンタが、あたしからの電話に出んなんて、何があったん?」
「イタ電が……続いてて、ちょっと嫌気がさしてジャック抜いちゃったんですよ。はは…アホですね。でも、留守電だと声が入って不快でしょう? 知人ならケータイにかけてきますし」
「あんまり悪質やったら録音しときぃな。証拠になる、って、推理作家には無用の進言か」

かさついた明るい笑いが響く。
ちゃぽんと、ボトルを呷った音。私もならって口にする。
むせ返るような濃厚さに、内臓から赤く染まる心地がした。
頭上には薄紅の桜が雲のように広がって、酔った頭には夢か現実か分からなくなる。
だが……夢と現実は、同じではない。
ここは夢の中だ。
だからこそ、この体と、現実の…つまり男の意識が目覚めた魂が適合しなくなるんじゃないだろうか。
朝井さんは、こうして隣り合っていながらも神だかヤクザだかが見せている夢の中にいる。
私を「弟」のようだと言ったことなど覚えていない。夢の中にそんな過去はないからだ。

そう、火村でさえ夢の中。

夢と現実は同じではない……けれど。
私の心には10年分の火村が詰まっている。
ほら、またひとつ、思いだす。
あの夜の景色を。
学生時代、まだ自分の中にある特別な感情に気付かなかった頃、この道を火村と並んで歩いていた。
話の内容など忘れてしまったが、薄ら寒かったせいで少し背を丸めた火村のシルエットを覚えている。
これは私にとっては現実の出来事だ。

気付けば私は涙を流していた。

「……アリス?」

朝井さんが私の涙を凝視していることは、闇の中でも分かった。
こぼれるなんてささやかなものではなく、ほとんど滂沱のそれ。
割れんばかりにボトルを握り込みながら、引っ張り出したハンカチで目元を抑えた。

「…っく……っ、ひ……っく………う、ぅぅ……」

もう泣くネタなど尽きたと思ったのに。
喉の辺りで凝った感情が、堰を切って溢れ出した。

寂しかった。私は、ひとりでいるのが、本当は辛くて仕方がなかった。
やるせなさと恋しさが喉を灼きながら駆け上がる。もう堪えられず、声を絞りきるように泣いた。

「あぁ……っぅ…っく、うっ、うっ」

震える背中を当たり前のように撫でてくれる手があたたかい。

「……あんた、会うたときから、なんや泣きそうやったな」

ぽつりと、捨てられた猫を見つけたような声音。
やせ我慢できなくなって、唇が勝手に動き出した。

「あさいさん……イタ電も、体調崩してたんも嘘です…。つらいんです。ほんとは今すぐにでも……あいたい……声が聞きたい人がおるんです」

声がひっくり返るのを宥めながら言葉を紡ぐ。十代の小娘がしゃくりあげるのと同じレベルの泣き言に、彼女がたじろぐ様子はなかった。

「うん」
「でも……怖くて……失ったら、どうしたらええか、わからへんくらい怖くて」
「電話切ってた、か。そん人のこと、好きなんやね?」
「たぶん……死んでも、忘れられへんくらいには」

あぁ、と納得したかどうか分からないが彼女は小さく頷いた。

「それほど惚れたなら、忘れなさんな」

滅多に聞かない、綿飴のように優しい声。
キン、とジッポの蓋を跳ね上げる音。
薄やみにボォと橙の火を抱く煙草は、季節外れの蛍。
不意に、やわらかな腕で肩を強く抱き寄せられる。彼女の煙草の匂いが鼻腔をかすめる。

「いつか厭でも忘れるもんや」

ちゃぷん、と瓶を揺らす細い指。
なんて魔法だろう。
今夜は付き合う、というサインはどんな言葉より心強く、私をしっとりと暖めた。


夢だの過去だの現実の私など、もうどうでもよいことじゃないか?
怖いとか、会いたいとか、好きとか、ふられたとか、もうあるがままでいいんじゃないか?
女の私でも男の私でも、もうどちらでも良いんだ。
彼ら彼女らを思い、思われることに隔たりはないのだから。
だからこそ明日の6時、私は家を空けるつもりだ。
切られたと火村は思うだろう。彼を傷つけることになっても会わない決心は揺るがない。
まだ傷は浅い筈だ。
少し早めのさよならが、彼を守ることに繋がればいい。




今更ながらこの夜が、私にとって短すぎることに気付く。

「朝井さん、やっぱり英都の桜を見に行きましょう」
「よっしゃ。アテはあるんやろうね?」
「奥の手があります」

私は勢いをつけて立ち上がった。
7日目はいつ「適合しなくなる」か分からない。明日の夜じゃ間に合わない。
足手まといになるボトルはゴミ箱に捨てた。


さあ走れ。

























俺はまるでストーカーだな。
自嘲しながらアリスのマンションから車を出した。
部屋の主は不在。電話は繋がらない。いくら待っても姿は見えず。
とりあえず手紙だけ残して今夜は退散することにした。
約23時間後までここに来れない歯がゆさに舌打ちするが、新年度前に片付けておきたい仕事があるからしょうがない。





夕食を摂ってから下宿に帰ろうと思い、午後9時過ぎに京都市内で適当なハンバーグレストランに入った。
ウエイトレスに二人掛けのこじんまりとしたテーブルに通される。
時間帯としては夕食のピークを過ぎている筈だが客はそこそこの入りだ。
向かいの椅子にコートを引っ掛けていたのだが、通路を歩く客の体がかすった拍子にバサリと音を立てて滑り落ちた。
床を覗き見ると、モップのごとく床掃除をしているではないか。

「たく……なんだよ」
よくあることだが、拾っていかない無礼なヤツには腹が立つもので。
大阪から未練を引きずって帰って来たこともあり、少々ムカッとしながら腰を上げると、親切な誰かが立ち止まって拾い上げてくれた。
顔を上げて礼を述べようとして、

「……あ」

固まった。拾い上げた方も瞠目している。

「ひ、むらか?」
「あぁ。久しぶりだな、天農」
「うっわ、何年ぶりだよおい。こんなところで会うなんてな!」

天農仁は英都を中途退学し、夢を追いかけて美大へと転入していった男だ。
あのころつるんでいた友人が紹介してくれたのを切っ掛けに、なんとなく交流が始まり、いつのまにか親交を重ねていた。
人付き合いに恵まれることがなかった俺が、友達と言える数少ない同期生だ。顔を合わせたのは、結婚式に出席させてもらった時以来かもしれない。

「英都一の美青年もすっかりオッサンだなぁ」
「気色悪い表現はやめろって。お前の方こそ、正真正銘のオヤジだな」

女の子が生まれたと年賀状に書かれていた。
幸せ太りしているかと思っていたが、一層削いだような体つきになった気がする。生活とは、シーソーゲームのような側面をもつものだ。

「火村、よかったらこっちこないか? 俺もひとりなんだ」

もちろん、ひとりで肉のかたまりを食うよりも随倍楽しい誘いを断ったりしない。






俺達は注文した料理を半時もかからずに平らげ、酒のかわりにアイスクリームを掬いながら更に小一時間ほど話に興じた。
どこから話題が転じてか、母校の夜桜を観に行こうとけしかけられて。
この薄ら寒い夜に、俺は職場へとんぼ返りしてしまった。




流石に通用口もぴしゃりと閉じられている。
大学近くの路上に車を止めて、天農と敷地内に続く秘密の抜け道へと回り込んだ。
壁が一部崩れているのだが、植樹が管理者の目を欺き続けているため、いつまでもいつまでも修繕されないまま放置されている。
おかげで良い歳をして、しかも教員の身分でありながらスパイごっこを楽しめるわけである。


ガザガザしたコンクリートの断面に気をつけながら侵入し、行く手にある木立を抜ければ、丁度図書館の裏手になる。
建物に身を寄せて苔の匂いが漂う路地を行き、桜並木に通じるメインストリートの手前で踞った。

「っと、守衛さんが管理室に戻る時間だ。あとちょっと待て」
「くくく……捕まったらいい笑い者だな、先生」
「唆したおまえが言うな」

うっかり忘れていたが、天農はこういう男だった。

俺は人付き合いが悪いのがたたって学内で浮いていたが、天農は法学部生らしくない際立った個性とおかしな感性でこれまた浮いていた。
変人の双璧とある友人におちょくられていた。
そんな気が、するが…誰か思いだせない。元々同期の顔などろくに記憶にない。誰か分からないのも何時ものことか。
思い出に浸るのはこの辺にして。


遠くの校舎の窓に、ちらちらと懐中電灯の光がちらついているのを目視する。
それが消えれば出て行っても大丈夫、というのは、ここを職場にする前から知っている情報だ。

「よし、いいぜ」

光が消えるのを確認し立ち上がった。

その時。

「ちょっと、誰かおる!」

明らかに俺達を指す、抑えた声が聞こえた。

ていうか、女?



朝井さんの咎める声に、ハッと図書館脇に固まっている影に気付く。
男2人だ。
守衛か? 捕まったらことだ。
と、体は反射的に緊張したがこんなところに守衛がいるはずがない。明らかに不審者だ。
ならばもっとまずいのでは。

「逃げな」

反応が早かったのは朝井さんだ。緊張のせいで固まった体を押されたが、私は一方の男から目が離せなかった。不審人物その1の体つきには覚えがある。

「アリス」

私を急かす彼女の呼びかけに、男は鋭く反応を見せた。かすかな明かりに縁取られた顔はやはり。

「何してるんだ、おまえ」

ビンゴ。火村だ。

「そ、そっちこそ何してん」

爆竹を投げつけられたように体が熱い。頭の中は驚愕と混乱の大空襲だ。
向こうも怖じた猫のように動きを止めている。

「ありゃりゃ……この奇特な御仁は知り合いなん? アリス」

とんずらモードに入っていた朝井さんはすばやく状況を読み取り、さっくり輪に入ってきた。

「というか、その、はい」
「はっきりしいな」

そのハスキーな声を、耳元に吹きかけないでほしい。弱点をせめられたせいではないが、

「さっきの話の……例の」

と白状したら、なるほどと猫のように目を細め「相も変わらず面食いやな」とくっくっと喉で笑っている。さっきは天女のようだったのに、今はお局様だ。
そこでようやく、不審人物その2が影になっていた壁際から体を起こすのが目に入った。
細い鼻梁と、神経質そうな首から肩のライン。ステンカラーコートの裾がふわりと広がり、影がキトンを纏ったアイツそっくりだ。
一瞬外灯を反射した暗い目にぞわっと悪寒が走る。
ガブリエルか?天農か?
わからない。
いぶかしむ気配を嗅ぎ取ったかのように、彼は相好を崩した。

「なんてこった、有栖川もか?」
「あー、あ、天農?」

さくさくと雑草を踏み分けて彼は近づいてきた。
目を白黒させる私を見て、「もう忘れちゃったの? ボケるにゃ早いぜ」と声も高く言い、その場の3人に「シーッ」と押さえ込まれた。
ああ、このマイペースぶりはやはり天農だ。
不法侵入中であることを思い出したようなので、とりあえず天農に伸びた6本の腕は解かれた。
そのまま、なんとなく私たちは円になる。いや四角か。


コンパクトな自己紹介の流れで、

「つまり、貴方がたはお友達同士だったと?」
朝井さんが訊き、

「そうなるようですね。歴史に差がありますが」
天農が答える。

「手紙見たか?」
火村は会話を無視してそんな事を言い、

「見たけど……」
私は真横の彼にだけなんとか聞こえるように答えた。


しかし、なにせ4人なのだ。
あとの2人の耳に届かないわけはないのだが、そこはどういう力が働いているのか「英都の桜はまだ5分咲きらしいですねー」と、目の前で呑気な会話が展開されている。
もとより2人の事が意識の外にあるらしい火村は、追及の手を緩めるつもりはないみたいだ。

「見たけど? それで?」

腕を組んで私を見おろしてくる。暗くて表情はハッキリ読み取れないが、どうにも威圧的だ。押されないようきっぱり言う。

「残念やけど、あの時間は用事があんねん。あ、折角やし、なんなら今済ますか?」

できれば深い話などは避けたいところだが、100歩譲って申し出る。

「……冗談じゃねぇよ」

氷点下まで冷えきった声が返ってくる。
あれ。
なぜか、火村がいきなり怒りはじめた。

「は?」
「は、っておまえな。それなら電話なりメールなり、寄越してもいいんじゃないか?
 ここでバッタリ会わなかったら、どうするつもりだったんだ?
 ああ、ここで会うなんざ、万にひとつもないだろう。つまり、偶然がなければ俺は無視されたわけだ」

声こそ抑えてあるが、私の肩を掴み揺さぶりかねない勢いでまくしたてる。
色々負い目がある私は軽く目を逸らしつつ「電話するつもりやってん」と言ったが、却ってまずかったかもしれない。

「嘘つけ」

彼は鼻で嗤うどころか、逆鱗に触れられた龍のように私を一喝してきた。
天農と朝井さんは不穏な気配を察知し、背を向けて何処かへ去っていった。申し訳なく思ったが2人を気遣う余裕は、一喝食らった時点で失せてしまっていた。

「誰がやねん。大体、そっちがヤリ逃げするからや。フツー顔会わせたくないもんやろ?相手が困るんやないかって考えるよな?」

もう逆切れだ。声が地を這う。
こちらだって生半な考えで火村から遠ざかろうと思っていたわけではない。
何も知らない彼を責めることはできないが、私だってここまで責められる覚えはないのだ。

「おい、まて。誰が逃げたって? ひとっこともなく先に出て行ってたのはそっちだろう」
「最中に『ごめん』やなんて顔に泥塗られた翌朝に、フォローもなくグースカ寝てられるか」

売られたものを買っている場合じゃないぞ有栖川。でも口が止まらない。

「っ……俺だって色々あるんだよ。おまえには分かるまい」
「ほう、やっぱり女は体だけなんか?」
「そこまでヤキが回ったのかよ。語ればいいってもんじゃない…ああクソ、分が悪ぃか。正直なところを言うと、頭冷やしてたんだよ。混乱してた。許せ」
「は? なんで?」

混乱する材料、すなわち私と付き合う付き合わないは、君がベッドで謝った時点で片付いていたんじゃないのか?

「おまえとの『これから』に決まってる。あのままバイバイで良かったのか? 俺は考えたね。
 こっち帰ってきてから、どれだけ理由を探した事か。
 なぜこんなにおまえに会いたいんだろうって。もう、逃げられてるのに」
「あれは!」

私の意識が戻ったショックと、ガブリエルのヤツにとんでもないことを言われ混乱していたせいで。
ボーダーを越えたからには、去り際くらい綺麗にしなくてはと思い込んでいたせいでもあって。

「あれは……」

どう伝えればいいのかわからなくて、喘ぐように息をつく。
火村はそんな私に、答えろとは言わなかった。

「俺は、もう少し、時間が欲しかった」

どこか遠い目をして言葉を紡ぎ始めた。

「恥かかせるつもりはなかったけど、下手うったのは俺だ。おまえが真っすぐに来てくれたのに、躱しちまったんだ。間が悪かったのもあるけど、おまえが腹を立てるのは当然だよな」
「さっきのは、こっちもカッときて…」
「いや。肝心な時に、俺は自分の気持ちを中途半端なところにぶら下げたまま、おまえをきっちり頂いちまったんだ。順番が違う、以前の話だ」

それだけ言うと、もどかしげにガリガリ頭を掻きむしっている。
本心からではない罵詈雑言を言った、その気まずさから俯いていた顔を上げる。
火村を伺うと、きまり悪そうにしながらも、改まった口調で私の名を呼んだ。

「とてつもなく長いかもしれない。付き合いきれないかもしれない。
 うまく愛せないかもしれないけど、おまえと、関係を作る時間が欲しかった」
「それ…過去形なん?」
「いや、現在進行形だ。アリス……もう一度チャンスをくれないか?」

なんてことだ。
あの火村が、胸を掻きむしらんばかりの様子で私などに希い願っている。
女を、愛することなどなかっただろう男が。

「火村」

私が、彼の中の変えられないものを変えたと、そこまでは思わない。
彼自身の力と、時の運みたいなものが重なって、変えられないものを受け入れようと心が動いたのだろう。
でも、その始まりに私がいることは確かなようだ。

それがどんなに嬉しいことか、君にはわかるまい。

幾年分の思いが、歓喜とともに爪先から吹き上がる。そのまっただ中で、目眩をおこしそうだった。
この体はあと1日と宣告されたのだから!

「だって私は……」
「こんな面倒なことには、付き合えないってんなら、切ってくれていい」

切れといいつつ拒絶されるのを恐れるように、彼は私を抱き寄せた。強く、解けないように私を確実に捕らえる。

「もう二度と顔を見せるなというなら努力しよう。でも、俺はおまえを好きでいるよ。
迷惑にならないようにするし、バッタリ会っても構わなくていい」
「らしくないこと、言わんといて」

頬を埋めたコートの合わせ目から火村の香りがして、彼を思う気持ちがまたぶり返す。

「らしいと思うぜ。出会ってすぐ惚れて、会うたび惚れ直してた。おまえと飲むのは寝ることよりも、感じたかもしれない。きっと、何度でも惚れてしまう」

こめかみに唇を寄せて、秘密を打ち明ける時の声で低く囁いた。
言われているほとんどが脅し文句なのに、触れられない筈の心臓にキスをされたような心地がした。噛み締めた歯列から溜め息が出そうだ。

「アリス、痩せたな?」
「忙しかった…ん」

「ちょっとそこの!」

二の句も続けられず、より深く抱き込もうとする腕に身を任せていると、鋭く威嚇する声が鼓膜をうった。
闇を裂く懐中電灯の光はまだ遠いのに、確実にこちらを照らそうと動いている。なんて目がいい守衛なのか。


まだ逃げ切れる可能性にかけて、木立を突っ切り抜け穴を出て、歩道に躍り出る。
ここからだとほど近いパーキングに停めておいた車へと駆け出そうとすると、腕をキツく引かれた。

「車ッ…!」
「やめとけ。下手に動いてナンバーを覚えられたらことだ。飲酒より超過料金の方がマシだろ」

そのまま車道を渡って、対向車線に停めてあったオンボロベンツに押し込まれた。
運転席に乗り込んだ火村は、なるべく滑らかに加速させ闇に紛れんと車を走らせる。
バックミラーには、ただ暗闇ばかり。見失ってくれていることを祈った。




「さて、ボニー&クライドはどこへ行こうか」
「例えが古いわ」
「オッサンだからな。ふぁ……少し、眠くなってきた」

さっきまでの逃走劇でこちらはアドレナリンが出ているというのに、火村は余裕があるのか急にそんな事を抜かす。

よほど我慢できないのか、路側に停車した彼は「……悪い」とアイドリングしたまま瞼を落とした。

いい根性してるやないか、と覗き込む。彼の呼吸はすでに深くなっている。
街路灯に切り取られた横顔は、漂白されたように青ざめて。




嫌な予感がした。




「火村?」

ドッドッドッド、と駆動するエンジンに連動するかのように脈が速くなる。

顔にそっと手を押し当てた。

体温を感じ、最悪の事態ではないと自分に言い聞かせる。

「火村、おい、ひむら?」

けれど、揺さぶってもぴくりとも動かない。
彼の名を呼びながら、私は泣きそうになる。

一台の車が向こうからやってくるのが視界の端に見えた。そのライトがやたら眩しい。
なんだ、と思い目を向けると、車ではなく光そのものだった。
辺りの闇を凪ぎ払うほどの強く大きなそれがベンツの鼻先まで近づいてくる。

輝く渦の中央に誰かが立っている。

『神が求める純粋なる愛、確かに受け取った』

「天農!?」

ステンカラーコートに黒いパンツのコーディネート。さっき会った時の服装だ。
だが背中に生えているものの説明がつかない。
白鳥の羽のようなそれの。
いつの間にかシートから姿を消した火村は、アイツにお姫様抱っこされている。

『私と彼は本当に似てるみたいだね』
「ガブリエルッ……おまえ天農を騙ったな。火村をどうするつもりや」

私は車外に転びまろびつ出した。

『人聞きが悪いなぁ。あんたのお友達をちゃんと送った私の親切に感謝してほしいんだが』
「その親切心を発揮して火村も返せ。命まで取っていく気か!」
『それはあなたが神との契約を履行したからじゃないか? だから彼は、神の御手に下った』

ヤツは見せつけるように軽々と、火村の肢体を胸の高さまで持ち上げる。
本当に持っていかれるのか。
神の愛とはなんなんだ?
いけにえとは、形而上の愛ではなく彼の肉体なのか、いや命か。
とにかく、私の執着心が激しく燃え盛っていることだけは確かだ。
奪われてなるものか。

「そいつを連れて行ったら、俺は地上で最も残忍な犯罪者になるぞ。神が造ったサイコキラーや!」
『ありえない。あんたの魂は、そうなることを望まない』

きっぱりとした口調だった。4つの角を持つ三角形はないとでも言うようだ。
なにもかもお見通しで、人の一生など手の中ということか。
その体はゆっくりと浮揚をはじめた。背後にある、大きな桜の樹が揺れる。
慌てて掴み掛かろうとしたら羽の一振りで払われた。

「なんの」

頭に血が上っている私は、桜の園を囲う塀によじ昇った。
ヤツの爪先はもう地上3メートルを越えていたが、もうどうだっていい。
塀から太い幹に飛び移り、爪よ剥がれるなら剥がれやがれ、とばかりに枝に取り付き足をかけ、がむしゃらによじ登った。
ただひとつのことしか、私の頭になかった。

火村を地上に戻し、自分がガブリエルを押さえる。

可能かどうか考えるより、とにかく実行してみるしかない。

「ぶはッ」

信じられないことだが天辺に近いところまで上り詰め、桜の海から顔を出した。
私の目線より少し下にヤツはまだいる。意外にノロマだ。

『何を?あんたは戻るんだ、その体はまだ神の庇護を受けていない』
「火村は守ってくれるんやな?」
『だったら、どうする』
「俺と交替や!」




躊躇ったらあかん。


思い切り、枝を蹴って飛んだ。












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次回エピローグです。キリのいいところがここだったというか…。「英都に抜け穴」は捏造。ほか、京都の描写がおかしくてもスルースルー!お願い!

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