見上げた睫毛
1.
神田神保町は本好きにたまらない場所だが、それ以外には殺風景なところだ。
頑張って早起きをした甲斐あって、飛び乗った新幹線は午前十時過ぎ品川駅に到着した。新宿のホテルにチェックインをすませ、一息つくもの惜しんでやってきたアリスは間違いなく本好きの作家だ。
連れ合いがいるが、あちらは有楽町で仕事だ。公用と私用を兼ねたアリスと違い、夜までみっちり拘束されている。
今年も暖冬というが、この街の風はひどく冷たい。
アリスはなるべく日向を選んで歩く。
あいつもこの街の空を見ているだろうか。
洗われたような青と、細くたなびく綿のような雲。
「あ」
だから火村はシンポジウムの最中だってば……。
手には刷り上がったばかりの雑誌が入った、薄いブリーフケース。
さっき珀友社に立ち寄ったとき、担当編集者の片桐からもらったものだ。もう大阪には送る準備をしているというので家でのんびり待てばいいのだが、一刻も早く現物を読みたかった。職業作家として、これは自然な欲求と思う。
どんな形で世に送り出されているのか、同業者はどんなことをしているのか。見届けるのも仕事のうちとすると、担当に蕎麦をおごってもらっているのは人付き合いの範疇か。
『いやぁ、僕のところ使ってもらってもよかったのに』
泊まっていかないんだったら、せめてお昼を、と連れていってもらった。
宿泊する予定で東京にきたときは、大抵気心の知れた編集者の家にお邪魔していた。同業者の石町がいたときは彼の家にも。
だから『今日も泊まっていけばよかったのに』とお人好しの片桐は、むしろ残念そうに言ってくれたのだ。そんな気持ちがありがたい。
彼のところも非常に楽しいのだが、いま私は首根っこを掴まれている状況で勝手はできない。
わりと妬くのだ、あのセンセイは。
『ああ、先生もお仕事で来てらっしゃるんですか。それで』
一緒のところに泊まるんですね、といわれた時、ちゃんと普通の顔ができていただろうか。
火村英生が嫉妬体質の恋人に豹変して半年、初めて東京でホテルをとった。
珀友社にくれば今回の用向きの話になるだろうということも分かっていた。
どこに泊まるかという質問も想定内だ。
仕事の話が一段落すれば、最近の助教授のことにも触れてくるだろう、と。
余裕で答えられる。
答えているはずだが、慣れない恋の荷が重くて心臓の裏に少し汗をかく。
今夜も残業だから飲み会セッティングできなくて残念です、と最後まで接待を逃したことを悔やむ担当編集と大阪での再会を約束して別れ、古書店めぐりに向かった。
待ち合わせまであと四時間。
銀座は夜の七時。
待ち合わせ場所の和光前で、有楽町での仕事を終えた火村は先に待っていた。
足下にはぎっしり資料の詰まっているであろうブリーフケース。入りきらなかったのか、手には携帯灰皿と大判の封筒。顔には疲労。
「こっちが待たされるってどういう了見だよ」
口からは不平。
「すまん」
前々からチェックを入れていた天ぷらの店に行きたがったのはアリスだ。しかし趣味に脱線していて、国会図書館からの移動時間を見誤った。
待ち合わせ時間が前後することなどよくある二人で、このように不機嫌を露にしている火村に戸惑う。何を怒ってるのかわからないが、この件は素直に謝罪するにかぎる。
老舗百貨店の前で問答していてもしょうがないので、目的地に向かって歩き出す。
「昼間はどこ回ってた?」
今度はジロッ、と音がしそうな視線を横様に当てられた。ぶっきらぼうな態度が続いているのを、もはや気にはしない。
「ああ、神保町行って珀友社と古本屋巡った。それから国会図書館で絨毯爆撃。これだけで半日つぶれた」
「そうか。ところで……まぁ、いい」
ごりごり強気、と思っていたら今度は尻すぼみとはいかに。さっきから調子が狂う。
「なんやそれ、気になる。言うてみ」
「それ、一人で回ったのかと思っただけだ」
一瞬、質問の意味が分かりかねる。
「俺の隣に誰か見えるか? 朝からずっとこの通り、単独行動や。守護霊様くらいはおったかもしれん」
ひょいと肩をすくめて、右、左、と大げさに見てやった。
すこし探るような視線をアリスのあちこちに当てると、指で尖った顎をつまんで小さく溜息をついた。
なにを心配しているんだか。
「東京まで来て、本と本の間を一日ウロウロしたのか、と思っただけだ。知り合いもいるだろう」
「片桐さんには会うたし、今日の目的は資料収集なんやから当然やろ」
「そうだな」
信号待ちから解放されたら、もう火村はいつもの横顔を見せていた。
だからアリスも、特にそれ以上何かをいう気にはならなかった。
選んだ店はアリスとしては大正解だった。コースのほかにオーダーした白子とキクラゲの酢物がこれまたヒットで、もう一皿追加してしまった。
アルコールも入ると火村も幾分饒舌になり、パネルディスカッションで妙な言い掛かりを付けられ辟易したことを漏らす。
認識レベルでのズレを明確にしないままディベートしても益体ないと、某シンクタンク所長をひとしきりくさった。おやおや、不機嫌の種はこれか。
あきれた話だが、相互理解ないまま議事は進むことはままある。それもひっくるめてのディベートなのだが、相手の性格までは汲んでいられない。お互いの不幸だったな、となだめた。
「そうや、片桐さんが会いたがってたで。今夜も飲みにいけなくて残念やて」
「このザマだから、俺の本じゃ儲からねぇって言っとけ」
「また腐っとる。彼はほんま商売抜きで火村に逢いたいと思とるよ。本のことは諦めてへんけど」
担当編集の人の良い顔を思い浮かべると、一緒に飲めなかったのがとても惜しいことのように思われた。
今日駆け付けることのできなかった彼の分も、と火村を宥めたら、フーンと目をすがめて一言。
「お前純粋だね」
純粋といわれて、大人への屈折と優越感を持ったのは十代二十代。
社会での苦労を色々味わった三十代だと、話題によってはちょっとした屈辱感を与えられる。
つまりカチンと、くるわけだ。
「……羨ましいやろ、数多い美点のひとつや。あーあ、なんで片桐さん来れんのやろ。残念すぎる」
こんなやさぐれた男と二人の時間を作るために、東京きたわけちゃうのになー。とまでぼやけば、目の前の男は当然の如く押し黙る。
そして舌を湿したぬる燗の味は空疎で、惰性で求めた二件目のバーでもただ時間を飲み干してしまった。
年季の入った発車ベルが普通より長いのは、多分これが終電だから。慈悲を受けた駆け込み客が、ぎゅう詰めの車内に挑んできた。
背中に手すりが当たって痛い。それへ火村が凭れてくる。鬼やね君は。
「にらむなよ、俺もこの中では無力なんだ」
そう言って肩を抱き寄せ、アリスの背中を手すりから扉にずれるのを手伝った。
反射的にアリスはその腕を押しやる。とはいえどうにもこうにも身動きがとれず、実際には彼の二の腕に右手をかけて、ちょっと力を込めるぐらいしかできなかったが、十分「否」と伝わった。
その証拠に火村の機嫌がフリーフォールの如く降下した。
思いかけず身を寄せあったせいで伝わってくるからわかる、彼の心が固まりゆく様が。
火村とは、ショートケーキのようにイチゴとクリームを間に挟んだような、そんな甘いスポンジ同士だと半年前に確かめあったのに、いまは形のあわない石同士みたいだ。ゴツゴツと、押し付けあったって噛み合ない。
最近、こうした変化に敏感な自分が嫌になる。彼相手に胸が塞ぐような思いをするなんて、もどかしくてたまらない。なにより、二人は対等であったはずなのに、いつの間にか機微を伺う形になってしまうのが不本意だった。
ふざけんな、不愉快や、と蹴ることは容易。
それなりに社会で修行を積んだため、そうした手段に出る前に一呼吸おく癖が身に付いているが、今この瞬間はそんな分別が恨めしい。
火村の態度に傷付いた後は、葛藤が押し寄せる。
この状況で誰も見ていないかもしれないが、やはり衆人環視のもと友人以上の振る舞いをされるのは苦手だった。
ただの過剰反応なのだろうか。
腕を取られる、体を庇われるくらい平気な顔で受け止めて、礼の一つも返せばいいのか。
根っこにあるのは照れくささ、というのは分かっている。でもどうしようもないのだ、三十年間男の子で通してきている。このシールドは容易に破れない。
大人げなく仏頂面をしている火村に、謝る気などさらさらない。
ホテルに着いたらもう一度、なるだけ傷つけない表現で説明するから。
好きだと、切羽詰まった火村から告げられ受け入れた時から、変容してしまった関係にあわせて彼の理解につとめた。
友人だから我慢できていた嫉妬や執着を、どんどん口にする火村。
行動の制限などはしないが、不意に余所へ外泊するとちょっと恐い火村。
物欲しそうな目で、気付けばこちらばかり見つめる火村。
変容したのは体もだ。
今のところ火村に任せてセックスしている。まだ行き着くところまでいってないけど、たぶん受け入れることになる。
これって女みたいだろうかと悩んだけど、単純に凸と凹があって成り立つ行為なんだと考えればあの役割分担に不満はない。
もっと夢見がちに言っても良い。
夏の日差しみたいに熱く長く灼かれてしまうと、抱かれている自分しか想像できなくなった。
キスも、軽く顎を上げる動きが嫌いではない。委ねるようなかたちだが、奪われる立場ではないから。
五センチ強の身長差は、キスをするのにちょうどいいという発見もあった。
実際火村にされるのは快楽が大きい。
好きになってしまった。
すきだ。
……どうしてくれよう。
内も外も自分がどんどん変わる。
新しく関係を結ぶ、そのとき起こる自然な変化。
恋人ならなおさら、破格の扱いをしたいのが人情。
自分のことを語りたがらない友人の口から、今後何が飛び出しても逃げないつもりでいるし、プライベートではかなり我侭を聞いているし聞いてもらう。
フィールドワークに同行したいという思いは、今も変わらない。
火村の何かを制限したいとアリスは思わない。
だから火村も自分と同じだけ理解して受け入れてくれると信じるのは、自惚れではないよな?
赤坂見附で丸ノ内線に乗り換えた。
火村はもうアリスを引き寄せたりしなかったから、新宿までの十数分二人は別々の場所で暗い車窓を見ていた。
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