2.
自分の言いたいことがすぐに届かなくても不安じゃなかったあの頃。
こんな憂鬱な気持ちを抱えたりしなかった。
真意を計りかねて戸惑ったりすることはあったけれど、火村との間に壊れやすい何かを挟んで二の足を踏むなんてことなかった。
それを厭うわけじゃない。
むしろもっと、近付きたい。
二人の生活は大学卒業後変化し続けたが、二人の関係が断たれることはなかった。
火村とは依然、間遠くはなったが気の向いた時に声をかけあえる気軽な関係だ。お互い離れがたい存在になっていく予感は、十年経てもまだ続いている。
自分にとって火村は、良いも悪いも含めて居心地のいい相手だ。
何かを思い立った時、迷わず火村に繋がる短縮を押す癖は、一体どういう感情に立脚したものだったのか。言葉にならないうちに握りつぶしていた。自分の中は小説で一杯だったから簡単だ。
実際、自分の生活と目標の成就で多忙な日々を送っていた。専業作家になってからのちも、自分の居場所を自分なりに堅持し続けるために。
絶え間なく降っては涸れ、呼んで呼ばれる物語はアリスの生命線。書けないと苦しくて、論理の齟齬が焦れったくて、誰かのトリックに嫉妬して、なお文字を綴り続けている。
すり切れた表現で言うなら、それが自分が望む存在証明の仕方だから。不条理な世界に整合性を与え、結末が途切れてばかりの現実を円環に繋ぐ。
探偵が悲しみを終わらせる世界は、醜い事実に光を当てるが残されたものは慰められる。少なくとも、思い残した事を思い悩むという呪縛からは救われる。やさしい探偵の手のひらによって。
アリスにとって推理小説とは至高の大鏡だった。十代の夏、寸断されていた様々な感情や世界に対する雑感が混沌から掬われて昇華される感覚を求め、自ら筆をとるに至った。
いまそうした理想と、商業ベースに乗って活動する現実とを両立させている。
苦しみも、焦燥も、嫉妬も、全ては創作の下にあるのだ。
創作の下だけに。
しかしフィールドワークで火村を見つめ直した時、そこにあった全ての煩悶が領域を広げた。
仕舞い無くしたと思っていた引き出しが、ぎしぎし音をたてる。
学生の頃、火村に付き合っている女性がいると知った時この音を聞いた。
あの日の昼休み、食堂の定位置に友人の姿を見つけて近寄った。
伸び放題の髪、肘まで捲ったシャツ、タワシで洗っているという紺のコンバース。
いつもどおりのスタイルに、アリスは今日ばかりはよく目を配った。これには理由がある。
『レポートの資料サンキュ、助かったわ。そうそう飲み屋の半額券持ってん、今夜どうや?』
腰もかけず資料とチケット代の割引券をトレーの脇に置いた。こちらを見返す目の色が、いくぶん揺れたようだが、理由が思い付かない。
『悪い、今夜はちょっと……』
『あー……あんな……ひょっとして彼女?』
『……まあな』
嫌々告白するなっちゅうの、という単語の変わりに
『……セフレやのうて?』
という我ながら品のない問いかけが飛び出した。案の定、眉間にしわを寄せて火村は唸る。
『馬鹿、そんなんじゃねぇよ。こんなところで言うか? フツー』
同学の子らしいから、火村といえども気を使っているのだろう。その子の汚名にもなりかねない。
『ちゃうんやね。すまん。お詫びにこれやるわ』
『いらない。お前持っとけよ』
『ええわ。彼女と今夜メシ食うなら使いや下宿生』
ずいずいと、机の上でチケットの押し付け合いをしているのが我ながら可笑しい。
『ありがたいが、多分外では食わない』
下宿でお膳を並べる二人を想像して、強烈に後悔した。
『雰囲気ないなー、たまには外食もせえよ。じゃ置いてくから好きにし』
なんだろう、この胃が絞られるような感じは。
一通り捲し立てた俺は、ばいばいと立ち去った。
アリス、と呼ぶ声が背中にぶつかったが知らない。
何かと注目される火村に、さっきから多種多様な視線が刺さって気まずいが、それがどうした。
同じ講座に出ている友人から聞いた火村彼女説は本当ってわかって、こっちもびっくりなんや。
ジロジロと近寄る前に観察したのは無駄だったようだ。
彼女は火村の誕生日に、服をなんとかっていう洒落たショップで買いそろえたという。噂に反していつもどおりの火村に、なんらかの安堵を覚えた自分が不可解だった。
そんなもの、皺が入ってキャメルの匂いがついたら、どれも火村色になるのだから。
これから寂しくなるな、と思った。
火村は気兼ねなく遊びに誘える友人だったのに。
終電逃して下宿を訪ねるのも遠慮しなければならない。
徹夜で投稿作を書き上げて、早朝襲撃してもならない。
ああ、そういえば先週眠くて途中でやめた議論も終わりをみないのか、と思うと寂しさが増した。あの居心地の良い空間に、火村が好いたらしい女の子を招くのだろう。
聞くところによるとアクの強い田村ゼミで、ひとりずば抜けた論客ぶりを発揮しているとか。気性の荒い女傑かと思いきや、たおやめぶりを地で行く美人。『あんな美女が傍におったら人生狂う』と証言者は口角泡を飛ばしていた。
そんな評判の女性とお近付きになりおって、という悔しさは不思議と弱い。というかジェラシーの方向性がいまいち幼い。友達をとられたという感情の方が勝っているのだ。
火村は外面からして取っ付きにくいし、話題に興味を引かれなければなかなか会話が成立しないという、不遜にも『話し相手を選ぶ』タイプなのだが、一度懐に入ればどんどん言葉があふれだす。
火村は実は話し好きの男なのだ。その子とはきっと話が弾むからそばにいるに違いない。
女は、男より遥かに細かく相手の機微を察知する生き物らしい。その分感情の振れは大きいが、押さえても押さえても溢れ出す生命力に惹かれる。
かよわげな腕に抱きしめられたら、きっと離れがたい存在になる。上手くいけばいい。
研究だけじゃ、火村は危なくなる。
誰か暖かな光の色を教えてあげるといい。
もし君の隣が塞がってても、顔を伏せたりしないで挨拶する。
そのかわり一番遠くの席におらして。
投稿作品は、一番の読者の君には悪いけど、見せずに出す。
彼女との空間に、俺の大事な繭を持ち込まんといてほしい。
俺が唯一、心を砕くもの。
所かまわず見る癖があるからなぁ、君。
片手間はイヤだ。
きっと彼女も。
離れがたいなんて予感は自分だけのものかもしれない。
肋骨の奥が、鉄を飲んだようにきしむ。
別れた、と火村がわざわざ電話で報告してくる七日後まで、名状しがたい鈍痛が続いた。
と、思うがなにせ十年以上前のことだから確かではない。
別れた理由を聞いたか聞かなかったかも、忘れた。
忘れるよう努めた。
出所の知れない痛みなど、結局は青臭い感傷なのだと。友達を取られたとか、彼女のいない者の僻みだったりしたら、なおさら蓋をしたい恥ずかしさばかり。
明るみにしたくない。
まして三十も越して。
忘れられた引き出しを破ったのは、火村だった。
いや、中には感傷のがらくたが詰まっていただけだったのに、骨を入れて再構築してしまったのだあの男は。
そこに通うのはまさしく自分の血だが、君がかたちを作ったのだから責任をとれと、唇を差し出した。
二十歳の頃の二人も青くなるだろう、拙さと余裕のなさで、お互いを求めたのだ。
火村に何もかもが届かなくたって不安じゃなかったあの頃。
名もない症候群だった時は、一過性だから我慢できた。
名付けられた途端、病になって、些細な痛みも辛い。
不安で、こんなにも焦れったい。
君に入れられた骨が疼いてたまらない。
ぐらり、と体が傾ぐのを左の腕で堪えた。
暖房が効き過ぎで、つり革は汗でじとじとする。
真っ暗な車窓に、矢継ぎ早に飛び込む白い壁面とパネルが、目的地に到着したことを教えてくれた。
早く吐き出して欲しかった。
こんな抱きしめることも叶わぬ地の底から。
新宿駅西口から徒歩五分がこんなに長いなんてどういうことだ。
荷物で両手が塞がっている火村は、人通りのないビル群を長い足でさくさく進む。
少し前屈みで歩くショートコート姿は、不機嫌でも見栄えがよくて困る。
負けじとアリスも早足で挑んだ。
沈黙、沈黙、沈黙。
交わした言葉は「ひやいなぁ」「ああ」とは。
同じ部屋に帰る恋人同士としてはいかがなものか。
宿泊先のWホテルのロビーは深夜でも煌煌と眩い。下の階にはコンビニがあって、便利というか庶民的な雰囲気になっている。
予約していたスタンダードツインはやや手狭で、部屋一杯に置かれているベッドが今日ばかりは白けた印象だ。
いっつもこういう個室に二人きりになったら、確率90%でハグ、80%でキスする男が、ちらりと一瞥したきり近寄りもしない。
「なぁ火村、黙っとらんとなんとか言えや。お前はなんや、会うたときから気に入らんことがあるようやんか。思い当たる節がないし、遅刻は謝った。さっぱりわからんから教えてくれ」
アリスはベッドの上に腰掛けて話す態勢をとってみたが、火村はドアから入ってすぐの狭い通路からこっちへは来ない。
フー、と長い息を吐いて一声。
「お前こそ俺に言うべきことがあるんじゃないのか」
「うわそういう鸚鵡返しは反則やぞおまえ」
「俺は別にふざけてるわけじゃない。アリスの自覚を問いたい」
「さっきの電車のことか? あれは……こんな、ギスギスした空気で、うまく説明する自信ないわ」
「なぜだ。言えばいいだろう。回りくどい言葉なんか選ばなくても」
「そう穿ったりすな。そういう見方するから、俺やって考えたいん」
「いつもの事だろ、俺がこうなのは」
火村は立っている通路の脇、壁面にあるクローゼットにポンポン服を掛けて、終いには浴室に消えた。
仕事で疲れてる方を優先させて風呂を使わせるのは、暗黙のルールだからやぶさかではないが、しかし。
あんな捨て台詞まで吐かれてしまった。
ああなった火村はもうテコでも教えてはくれまい。疑り深いのも度が過ぎれば、ただの根性の悪さだ。
「腹立つ〜……。火村、何が君の地雷やったか知らんけど、いっさいがっさい俺におっかぶせんのはやめや」
ドアの外からぼやいたが、おそらくシャワーの音でかき消されているだろう。
嫌がらせに入ってみようか。
風呂というのはガードが下がる。やらしい意味だけじゃなく、銭湯も含めそういう場所なのだ。
でも、最近弛んでいる気がする背中や浮いた鎖骨をさらすのは、あまりに自虐的な気がしてやめた。
可愛い女の子か色っぽい大人の女性なら魅力的な媚態だろうけど、三十路の男には向かない。
火村はさすがというか、美意識がどこかおかしいので、こんな体にも見るべきところがあると言う。
『いまからキスするところがそうだ』
知の要塞と呼びたい頭脳の何処にそういうやり方をしまってあるのかと、あきれるのを通り越して感心する。その夜教えられた箇所は果てがなく、いつの間にか中心を銜えられ声をあげさせられていた。
この状況。流されるままにベッドで待って、交代してシャワー浴びて無視して寝るだけという終わり方もいい。
けれど頭は冴えて、残りのエネルギーを何かに使えと指令を送ってくる。
「火村、ちょっと出てくる」
聞こえてないだろうが、そう告げるとカードキーと財布だけで部屋を出た。
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