■7.由良のとをわたる舟人梶をたえ行方もしらぬ恋の道かな(046)
波高き由良を漕ぎ渡ろうとした舟人が、梶をなくしてただゆらゆらと波間に漂うように、この恋の行方がどうなっていくのか、私にはまるで分からないのです。
■火村彼女持ち前提。オリキャラ登場あり。
water line
1.
睫毛についた涙を逃がすように小さく瞬きをすると、火村は腫れる寸前まで好きにしていた唇を解放して、外耳に歯を滑らせた。産毛まで立ったそこに、隙間なく舌で這われる。
誰もいない下宿。
誰の帰宅も望まない夕暮れが部屋を染めあげる。
まるでキャビンの中から、果てない海をみてるみたい。
夏期休暇に入ると寝ても覚めてもキィを叩く。
有栖川有栖は推理小説を書きまくっていた。
BGMの『ギターフェチのためのハードロック名曲選』に聞き飽きると急に人恋しくなり、ちょっと迷って北白川の番号を押していた。
こんな小説馬鹿にも友人はいて、火村英生という。こいつは掛け値なしの秀才にして美男という、同性としてはやっかまずにおれない類いの男なのだが、それら長所を凌駕する個性的な性格をしているので、目に見える美点が程よい中和剤にすら思えてくる。
もっともそれらを総合して面白いと感じているのはアリスと、極少数の物好きだけだったが。
去年のゴールデンウィーク明けに、彼と出会った。
火村ならサドンリー、とか言いかねない。あ、これ「突然」という意味な。ちなみに火村の母国語は英語ではない。大阪人に向かって言うに『アブソルートリー』という言葉を、つい選択してしまうセンスの持ち主なのだ。
勉強のできるやつが考えることはよく分からない。
彼が入居している北白川の下宿は、古式ゆかしい呼び出し専用電話だ。大家さんに取り次ぎをお願いすると、ほどなくして電話口に来た。今時珍しいほど清貧の彼は、今年もバイトと下宿と図書館の三か所をぐるぐる巡回しているという。
『タイミングがいいな、さっき帰ってきたところだ』
「おかえり。早速本題に入るが、火村、なんと今月いっぱいで俺の定期きれるねん」
『それで?』
「こっからそっちまで乗り放題、なのにそのままほかしたら金を殺すようなもんや。時間コストと兼ね合わせて、有栖川式の損失分岐点を考えたらな、あと三往復すると納得がいく」
『大阪人の考えることはよく分からん』
「うわ、お前に言われるとは」
『どういう意味だ』
「つまりな、死に金使うなゆうんはじーちゃんの遺言や。そういうわけでビール持っていくから、今夜は朝まで生テレビを実践せえへん?」
『「つまり」がつながってねぇし、田原は好かねぇな』
「素直にビール飲みたい言わんかい」
『お前こそ、お世話になりますくらいの気持ちでいろ』
以上の会話は「今日は飲みましょう」と訳される。
下宿にはクーラーがなく、日照りをもろに受けた彼の部屋は日が沈んでも熱が篭っている。
あつい、あついと駅前で貰った焼肉屋の団扇をあおいでもまだ暑い。猫より暑さに弱いアリスは、金盥に水を張って持ってきてくれた火村が天使に見えた。
「うわー、ドリフや」
「頭に落としてほしいか? 重いんだこれは。早く新聞敷け」
仏頂面で、煙草を銜えたミカエル。羽をしょっても、存外似合うかもしれない。
二人で向かい合って、一つの盥に足を突っ込んだ。狭いものだからお互いの踝が触れあうほど近い。動けないから、なかば寝そべってビールやらを引き寄せた。
こんな原始的な冷却装置に、悪戯心を誘われないアリスではない。足の親指と人さし指で火村の小指を軽くつまんだら、予想以上にびっくりされた。
「おっ……まえなあ」
「器用やろ。足じゃんけんもできるんや」
「お行儀悪いってママに叱られなかったか?」
睨み付ける時、嫌そうに凛々しい眉を少し寄せる。が本気ではない。
興味はすぐテーブルの上に移り、「これは当りだったな」と、のり塩味のポテトチップスを口に放り込んだ。指まで舐めている。君のお行儀もたいがいやけど、自分もするので黙認。
左手で上体を支え、ぐいとビールを呷る喉元を汗が流れ落ちる。
アリスは気難しいと評判の友人と過ごす、こんな時間が好きだった。
彼と五月の階段教室で知り合って以来、お互い呼ぶものを感じていつの頃からか自分にとってのツレのような存在になっている。最近触れた、青年期の関係論をひくまでもない。
火村との間には、いくつかの話で通じ合えるケーブルが敷かれている。交流を重ねる毎にその太さは増してゆき、自然発生的に出てきたケーブルも細いながらプラグは差し込まれているという状況。
自分に近く、でも違う。絶対同じにならないこの絶妙な配線を刺激的というのだろう。
先人曰く、友情とは二つの体に宿る一つの魂らしいが、二つの異なる魂が呼び合うからこそ稀少で、愛おしいのではないかと思う。これは屁理屈だ。わかっているが、一つの魂と呼べるほど彼と重なってないのが事実だからしょうがない。
二人分の足が、金盥の中頃までだった水位を八分目まで上げている。
水が外に零れないように、ゆっくりとお互い身じろぎする時生まれる別々の意志が、思いがけず甘く切なかった。
夜型生活の悪癖と、馬鹿に盛り上がったこともあってその夜はすぐに寝付けなかった。当然起床は遅く、昼前に揺り起こされ目が覚める。
一緒に古本屋めぐりをする約束を思い出し「すまん、寝過ぎたか」と顔を上げた。体はまだ布団に張り付いたままだが。
すっかり身支度をした火村が、寝ぎたないアリスを見兼ねてというわけではなかった。
「起きて早々に悪いが、俺に用事があるとかで誰か来てるらしい。ちょっとここで待っててくれないか」
と、珍しく殊勝な口調。蹴っ飛ばしたくしゃくしゃのタオルケットを広げて畳んで、えらくまめまめしい。おまけに喉かわいた、という前に目の前に冷たい水が差し出される。
おおきに。
肌は湿っているくせに、中はカラカラの体は一気にそれを飲み干した。
くはー、うま。
見下ろす火村にコップを押し付けて、背伸びをする。
「目ぇさめた、ありがとう」
「腹は?」
「あんま減ってへん」
「ここ出るなら今のうちだぞ」
「ええわ、なんかタルイし。待ってる」
とりあえず顔くらい洗わしてや、とできるだけ機敏に起き上がってジーンズを探した。来客はもう下まで来ているらしい。
パジャマ代わりのTシャツを着たままにしようと決めたアリスの支度は、あっけなく終わる。親切な俺は自分の髪に櫛を通したついでに、火村のぼさぼさな頭も整えてやった。寝癖までは面倒見てやれないが。
アリスはさっきまで寝ていた六畳間に自分の鞄を持ち込み、隣室との間を仕切る襖を閉めた。腹這いになってSFマガジンを開いてみたが、人が入ってくる気配に落ち着きをなくして三行しか読めない。訪問者はあがりかまちまで来ているようだ。
軽い足音と……
「火村くんオハヨ、来ちゃった」
それに似合いの、かわいらしい声。
「何か用。とりあえず中は汚いから、ここで用件聞くけど?」
火村の提案はそっけないが、事実でもある。
コーヒーはネスカフェじゃない怪しい銘柄だし、畳には昨日つまんだポテトチップスの屑があってもおかしくなんですよー。
と、心の中で呼びかけたが、訪問者は動かなかった。
「そんなぁ、入れてよ。最近全然、遊んでくれないし」
「どうして来た」
「あなたがいけないのよ。電話にも出ないから、来るしかないじゃない」
どうやら彼女らしい。
しかも雲行きが怪しい。
今から出ていって「ほな帰ります」と去るべきか。
それが正しい。と、思った矢先、
「おいっ、何やってんだ」
「い、や」
慌ただしく古い木戸の閉まる音がして、ふたつの足音がまろぶ振動。
シュッと、衣擦れが鳴る。
「デリヘルは呼んでねぇぞ」
「もちろん。誰が奉仕するって言った? して貰いに来たの」
自ら出ていく機会が、これでひとつ消えるのを感じた。
火村は沈黙している。
アリスはやきもきするばかりの状況に身悶える。
目の前の襖は、黒光りする縁と縁を閉じあわせたままだ。会話から察するに、隣の部屋には半裸の女性がいるかもしれない。
火村が出してくれないから、ふたつ目のタイミングも潰された。
匍匐前進やりかけ姿勢が辛いが、異様なシチュエーションがアリスを縛りつける。
「体以外、火村くんと気持ち良くなれることなんて、ほかにないもの。映画の話も上滑り、お茶をする時間もないし、大学も違うし、専門もちがうわ。あいにくあたし死刑廃止論者だしね。言葉がとことん合ってないんだから。幸い、セックスだけは何の障害も齟齬もなく、むしろいい感じじゃない。これってそうない巡り会わせよ」
「だいたい同意見だね。でも俺は拒否するよ、なにせさっき起きたばかりだし、人間との触れ合いに飢えていない」
「少しはあたしとの関係の維持に努めたら? 一定時間が経過したら、バイクだってエンジンさびるわよ」
「バイクは君ほど多くを求めない」
「そうじゃないでしょ。あなたも、あたしを求めているのよ。今は忘れてるけど、飢え渇いた時に気付いたって遅いから」
北向きの部屋は隣よりいくぶん快適だったが、襖一枚隔てた向こうからの緊張感を受けて、アリスはかかなくていい汗をかいている。
まったく状況が飲み込めないのは当然として、なんだってこの女はこんなに強気なのか。
彼女なのは確かなようだが、世間一般の男女交際とはマリアナ海溝より深い溝があるらしい。
火村の彼女に心当たりはあった。母校の廊下で火村と見知らぬ女の子が対峙しているのをアリスは見ている。
七月七日のことだ。
なぜ日付けまで克明に覚えているかというと、教授の遊び心から、民法概論のレポートは毎年この日に締切を設定されているのだ。
今年も間際まで提出できず、ぎりぎりまで粘ろうと大学に来ていた。
試験期間中、常より人の行き来が多くなった学舎は心地よくざわめく。その健全なレースに皆が取り組む中、廊下で小さくやり取りする男女が目に留る。
火村と、彼に話しかける、少し上背はあるがタレントみたいに可愛らしい女の子。
会話の内容までは聞き取れなかったが、仏頂面の火村と対照的に女の子は溌剌と、形のいい頭を包むショートボブの髪を揺らして笑う。
二人を取り巻く空気に、通りかかる学生の視線も自然と吸い寄せられる。
学内随一の美男と親しげにしている様子に、あからさまな僻みを囁く女子学生もいた。
『誰よあの女』
コロコロと笑っては、気安く腕を回す。
あの近さは、くちびるの重なる距離を彷佛とさせる。
火村がこちらに気付いて軽く手をあげたのが、やけにほろ苦くさせた。
火村がそうしない限り、『彼女』の話題には触れずにいようとアリスは決めた。
翌日は学食でおかずの交換をして、試験のことを二、三やり取りしただけだ。
あとあと考えたら、友人同士としては不自然な配慮だった。たぶん、それは口にできない感情。だから、気持ちに蓋をした。
彼女といる火村が、
火村の腕に触れる彼女が、
それを見つめている自分が、
自分を見ない火村が、
嫌だなんて。
あ、人生のどつぼにはまったなと思った。
これって嫉妬だとすれば、答えは間違いなくひとつ。
それでも、友愛のボーダーをこえるものではなくて。
やんちゃ盛りのお年頃だが、自分から積極的に同性との冒険をしたい気持ちは薄い。あまりいい過去がないので恋愛に臆病というのもある。
今のところアリスの中には消極的なイエスしかない。
あなたもあたしを求めているのよなんて啖呵はありえない。
この女は多少壊れていると思ったが、そこだけ、胸を抉られた。
「帰れ。セックスを道具にするような女とは寝れないね」
「困ったわね。無視が駄目なら威嚇とは。ちなみに道具にしているのはあなたもなんですけどー」
苛立たしげな声の火村など意にも介さず、女は続けた。この「軽み」はいっそ才能かもしれない。
「威嚇しているのはそっちだろ」
「ねぇ、ベッドってこっちの部屋?」
「おいバカ!」
身構える暇もなかった。ためらいの無い手は容赦なく密室を暴く。
襖に頭を向けて腹這いになっていた俺は、それでも彼女のからだだけは見るまいと顔を伏せた。
「わぁ、ユミびっくり。どういう仕込みなのこれ」
頭上から落ちる声は、どこまでもマイペースだ。
亀みたいな男が伸びている様は、さぞかし滑稽だろう。
「おまえな、他人のうちを勝手に……」
「誰よこの人」
「友達」
「へぇ。今までの盗聴は許したげるから、ちょっと座を外してもらえないの?」
「お前に帰れとさっきから言っている」
火村頼むから俺かこの女をどうにかしてくれ。
「ふぅん。じゃあさ……」
彼女が何か耳打ちしている気配がした。
それからすぐに、火村は俺の望みを叶えてくれた。
二人で、出て行ってくれたのだ。
体を起こした俺は呆然と、畳の上に座り込んだ。
火村はあの壊れ気味の彼女とホテルにでも行ったのだろう。
女嫌いの行き着く先が、ああいう記号的な女なのかと思うと、いささか胸が塞ぐ。彼女の毒気に当てられたともいう。
降伏するような、顔を上げられなかった態勢も存分に屈辱感をそそった。
遠ざかってゆく足音に、決定打を浴びせられ。
あんなアホのことなんかしらない。
彼女に盗み聞きを許されたくもない。
今日の予定が潰れたことを悲しむことなんかない。
家に帰って、書きかけの1本を仕上げたらいい。
そう、それがいいのに、このくちびるを濡らす味に負けそうだ。
いまさら『消極的なイエス』が、彼女の右ストレートにやられてしまうなんて惨めすぎる。
『誰この人』という声には、『誰あの女』とあの女子学生が口にした響きはない。
当然だ、嫉妬の対象ですらないから。
愛し合う二人を見送る友人というポジションは、自分が選んだ役柄。まちがえるな有栖川有栖。連絡のない彼氏のもとに乗り込んできた彼女が、思いきった手段に出た昼下がり。自分は、痴話げんかに巻き込まれ、運悪く道化になってしまったかわいそうな友達。以上がこの話のシナリオ。
無理矢理痛みを摺り替えて、流れ落ちた涙を拭う。
そして汗がぐっしょりと滲みたTシャツのまま、家に帰ろうとのろのろ立ち上がると、階段を踏み抜く勢いで駆け上がる足音が聞こえた。
「アリスッ!」
常にない慌てっぷりで扉を開けたのはロクデナシの店子だ。
なぜ戻ってきたのか、理由が分からない。
慌てて反対を向いて、頬を流れた後を隠すべくことさらTシャツをゆっくりと脱いだ。汗を拭うふりで顔を押し付ける。
「……アリス?」
「なぁ、着替え貸してくれん? これ着てられんわ。汗かいてかなわん」
顔を押し付け過ぎるとおかしいので、自然な動きに見えるよう背中や胸を拭いながら洗面台に向かった。鏡に映る顔は、すこし赤みを帯びていたが薄暗い部屋では気にならない程度だ。さっき立てた筋書きで、友人の会話をはじめねば、と水ですすいだ顔を上げる。
今頃火村は押し入れの襖を開き、収納ボックスを覗いてーーーーーーは、いなかった。
背後の柱に凭れ掛かってこちらを見ていた。
動揺を跳ね返すように、アリスはきっぱりと振り返る。
「俺今日は帰るわ、彼女下で待たせてんちゃう?」
「振られた」
「……はああ? 適当なこと言うなよ。さっきまであんなに君をどうにかしようと喚いてた子の気持ちが、そうそう変わるわけないやん。君らの特殊な関係について俺は理解できんけど、それはおかしいてわかる。おかしい」
「二回も言うなよ、俺も結構ダメージなんだ」
「後味悪いんはこっちもやっちゅの。ヤケ酒はひとりでよろしゅうに、俺は帰るんで」
「巻き込んで悪かった。アリス」
「……そこで俺に謝るんは偽善的やな。彼女にしたら、俺らは共犯関係や」
すり抜けようとすると、思いがけず強い力で腕を引かれる。
つい口をつく針のような言葉は、腕が痛いせいだけだと受け止めてるだろうか。
「お前は必要あって、隣で待たされてただけだ。今なにを言っても『たられば』だがな」
あのとき来客者を確かめたら。とりあえず婆ちゃんとこで待ってれば。
後頭部に落ちてきた、無数の棘はなかった?
そんなわけはない。
「盗聴者呼ばわりはちょっとキツかったかな……」
「…………」
「まぁしゃあないか。彼女に謝っといて、俺は合わす顔ないし」
どんな形であれ、火村のテリトリーに食い込む存在にこの心は痛む。火村に痛いと告げたがって、気持ちが暴れ出す。急ごしらえのシナリオは、それでも言うべき言葉を違えず示してくれた。
大根役者なのは重々承知しているので、一言ごとにこの胸郭から、不規則に乱れうつ鼓動が洩れ出てないかと、ついそこに拳を当ててしまうけれど。
「謝る機会はねぇよ、明日アメリカに帰るんだからな。そして本当に二度と会わない。あいつ、やっぱり本質男嫌いだから。俺に人並みの恋愛感情や執着があったら鬱陶しいんだと」
「随分な変人や……男嫌いを押してまで付き合うとる男に、惚れた言われて鬱陶しいて」
「違うんだ。言ったって分かりにくいと思うが、俺もあいつも相手に執着しない交際が気に入ってただけなんだ。それを今日、俺が裏切った。だから、愛想を尽かされた」
「彼女に、執着した?」
「そう見えたなら、お前眼科に行った方がいいよ」
ぐしゃりと、無造作に前髪をかきあげ現れた表情は、今し方振られたというにはあまりに、焼けそうに熱い。
押し掛けてきた彼女に、帰れと言い続けた。
誰も居ないとは言え、婆ちゃんが手をかけ暇をかけ磨いた階段を踏み抜く勢いで戻ってきた。
どれも触れてはいけない事実のような気がした。なにか言いたいが舌が動かないアリスに、じれったそうな火村が一歩近付いて来て、だらんと下がった左の手に指を伸ばされた。
「お前に、今から告白する」
手は自然なかたちで半開きになっている。火村はソナタを弾き終わる奏者のように、ゆっくりゆっくり鍵盤の上を羽が滑るような繊細さを真似て、指先で感情線を辿った。
目は合わせない。でも逃げられない。
だからこそ意識が集まっていく。
お互いの汗が匂い立つ、不快ではない。
吸う空気の重さが、急に変わった。
「ま……って」
呼びかけを押し戻すように、薄皮一枚のところでアリスは口付けられた。唇の匂いを嗅ぐためのようなキスだ。セロファンを咬ませられるか、られないかくらいの位置で、触れあわされる。
触れたときと同じ緩慢さで唇を引いて、火村は視線を絡めた。
「アリス、選んでくれよ」
「……何を」
「俺はお前に惚れてる」
何度も同じ答えの前で立ち止まってはノックをためらっていた扉を、こいつはいとも簡単に叩く。
「振られて、友人としてやり直せるかどうかも怪しいほどにな」
何度も。
「お……」
「とりあえずお試し期間というのもなしだ。二つの選択肢しかないんだ、俺には。お前からのキスか、最後通牒か。選んでくれ、お前に止めを刺されるなら後悔はない、つもりだ」
ぐっと近付いたその体からは、見たことのないほど張りつめた気配が立ち上っている。
「おい待て待て、じゃさっきのダメージって何についてなん? 彼女に振られたからと違うんか」
「みっともない内情を、お前に知られちまったのが痛いんだよ。……だからこんな窮地に立ってる」
そしてそっと、滑るように火村の親指が目元を辿った。
ばれていた。その上で告白を突き付けてきたのだろう。王手をかけながら窮地だなんてよく言う。
悔しいけれど、消極的なイエスは、火村の答え次第で全面的なイエスにひっくり返る。信じていいのかという不安と、降り積もった恋情と、さっきまでの最低最悪な気分が混じりあって雪崩を起こす。
それでも、畜生、この手を解けるものか。
この一年という月日は自分にとって、手放せない重さをもっているんだ。
ふたりで歩いた昨日は思い出になり、明日は切実な未来になる。
金色の盥一杯になった水が溢れたとしても、そこに二人分の足があったらいいと思えた。
越えられない夜があったとしても、向かい合えなくても、せめて一緒に踏み止まりたい。
「お前みたいなロクデナシは信用ならんわ。第三の選択、保険をかけさせろ」
「どんな」
「お前、自分を裏切り続けることできるか?」
この保険は精一杯の強がりだ。この危うい友人とふたり、オールのない船に乗り込むのだから、お姫さまみたいに手を引かれて踏み込むわけにはいかない。
「俺はお前の主義には合わせられん。恋人に執着できへんやつと、誰がつきあえるか」
信じたくて、火村が彼女に振られた理由を補強する。
信じたいと願うことに切なくなって、そんな揺れを振り払うように睨み付けたつもりなのに、黒い瞳はにんまりと細くなった。
「喜んで付きまとってやるよ、アリス」
行き先が知れない箱船の、舫は解き放たれた。
|