2.




触れるだけのキスに焦れたのは、アリスが先だった。
望みを違えることなく読み取った火村に五指を繋がれ、しっとりと唇をあわせた。やがてもっと深いつながりを求めた火村は、アリスが握りしめていた右手をほどかせ、引き寄せられる。胸郭が上下するのを直に感じたいから、火村のTシャツも脱がした。


「あ、ふ……」


きゅっと舌を吸い上げられて、小さく震える。
それから弱い耳朶を甘く噛まれて、次に弱い鎖骨を舐められた。


「お前……肩、冷えたな」


こんなに心臓が鳴っているのに、火村の舌のほうが熱い。


「アリス、お前はどうする? このまま……」


キスだけじゃ全然足りないという顔のくせに、火村は囲い込んだ腕を少し緩めた。アリスは少しあきれて、顎先に齧じりつく。


「……女の子……」
「あ?」
「女相手のときも、こんな状態で、そんなん聞くんか?」


精いっぱいの強がりで、火村の太腿に腰を押し当ててみた、かなり卑猥に。布越しでもわかったろう。


「十分理解した。責任とるぜ」


と、腰骨ごと引き寄せる乱暴な仕草が、ものすごく色事めいて興奮した。
たったの十分そこそこで、親友同士はお互い恐ろしい変貌を遂げる。


ジーンズを互いに脱がしあう間も、キスはやめない。固い布地を取り払って見えてくるもの、その先のことを想像するとすこし指先が躊躇ってしまうけれど。


自分で選びたいのだ。想いはそのまま、体全部を脈打たせる。
熟した洋梨を舌で割るような甘い絡み合いは、少しずつ容赦がなくなる。昨日雑魚寝した布団に押し倒されて、割られた膝の間、隠すものもなく重なりあうからだが、視界に入って。


「どうしよ……」
「……やめるか?」
いささか凶暴な声が、意に染まぬであろうことを無理矢理吐いた。

「その顔……だからお前はアホやねん……やのうて」
「焦らしやがって、俺を試してんのか?」

膝頭を割られた。内股をなで上げられ、その奥、核心にたどり着く前に茂みの周りばかりをなぞる。

「……っあ。試してんとちゃう」
「じゃ、何だ」
「こっからどうするか、わからへんから……困ってん」

>勢い押し倒されてみたものの、その手の雑学は、まだ層が薄くて実践向けではない。全くの火村任せでは事が進まないのではないか。と、思い付いたのでよく考えぬまま口にしてみた。そしたら、えらく甘ったるい口づけを顔中に施された。


「待ってな……ち、やっぱてめぇ極悪」


 

こんなことを言われた方にしてみれば、潔いというか、妙なところでとことんボケるアリスがたまんなく可愛い。
それはお前やん、と俺の布団の上で呟いたって意味ねぇぞ。立てた両膝の奥、茂みの中で撓む性器は、造形として随分整っており色味も慎ましかった。男の性器だと思うと同時に、唾液が湧くなんて初体験だ。


ローションがアナルセックスにおいて必須なことは、少し前に知った。ワセリンとかベビーオイルなら薬局でためらわず購入できるが、こればかりはそうもいかず大阪の専門店に行った。
なぜこれを購入したか、自分に問いただすのも之困難なのだが、一種の代替行為だったのかもしれない。
アリスのことを意識している、性も恋もひっくるめて。という認識を持ったのは去年の夏だ。潜在意識の次元で惹かれたのは、もっと前かもしれないが。


アリスは去年四月まで彼女がいたという。元来ヘテロなのだ。それでも、傍にいたい。でも欲望は日々募る。
相反する情が逆巻いて、巻き過ぎたとぐろを持て余した俺は、ある時アリスと大阪の紀伊国屋で別れた後、繁華街へ向かった。
そういう系のバーで男同士のやり方を聞き、ついでにレクチャーしてくれるというお誘いをようよう退けて、かわりにローションだけ買っていった。馬鹿馬鹿しすぎて誰にもいえない。
今思えばあれは試練だったのかもしれない。だれが課したのかは知らないが。


ローションは一度だけ使った。自慰のために。手のひらに広げて、それを思い人に重ねた。アリスの中が解ける瞬間を思う。あの顔が無防備になるのを想像する。
女ではなく、生硬い男の乱れる様に欲情した。あの体までの距離を思うと、哀しいまでに早く頂点が近付く。
浅ましくも、堪えて堪えて、仮想のアリスを泣かせて。自慰とは思えないあの快感の深さは、初めてそれを覚えて以来だったかもしれない。


ユミと付き合い出したのは、それからすぐだった。
深層で男と敵対しているところが安心できた。ベッドに入って早々『男に本気で惚れられたくないのよ』と言って俺を下に敷いた。あれは支配欲のあらわれだろう。本質が男、もしくは限りなくそれに近いように感じられた。
何より、アリスは気付いてないようだが二人は造形がよく似ている。それだけを楽しめる相手だった。


 

 

「キャップ、開いてる」


現実のアリスの呼びかけに、手もとのボトルを確認する。ローションを洗面所に取りにいく間で、すこしアリスは正気を取り戻したらしい。照れくさそうに膝を閉じている。


「これから使うから、当然だろう。さあ、膝の力緩めな? ベイビー」
「俺は成人男子やアホ! つか頭わいとるな……キミ正気か?」
「バーカ、惚れたやつ脱がせて正気でいられるかってんだ。色気出してくれよ、アリス」
「さっきのさむかった、もお無理かも」
「特別に、どうして包装が開いてたか、教えてやろうか?」
「さっきゆうたや……おい、やっぱ言うな」
「聞きたくなければ耳塞いどけよ」


で、結局手のひらでは限界があるわけで。


「この鬼畜倒錯ヘンタイ性欲!!」
「どうとでも」


友人のアブナイ妄想で嬲られた自分を思い、布団に伏せて嘆く。
そこに覆いかぶさるように火村が唇を落とした。無防備な耳殻を、歯列を縦に当てツゥッとなぞる。噛むでもなく、感じるところを探して滑らせて、流れるままうなじにキスを落とし、ひとつずつ背骨を嘗めあげられた。ぞくぞくと尻のほうから駆け上がるものに、喉が鳴る。


背中への愛撫から逃れようと、瀕死の金魚のように身を捩るが、もどかしさが広がるばかりだ。
正面にかえされ、ようやく立ち上がったものに指が絡む。粘る感触が指との間に生まれている。節高な指が、なめらかに動いた。
何度か往復されるともう駄目で、噛み締めた口がほどける。


「や……あ、ひむらぁ」
「全部ガンガン扱いた方がいい? ……ああ、この辺だけ弱める?」
「……あっからさま……に、ゆう……なっちゅうの」


足を開く必要などないのに、片足を軽く持ち上げて後腔に切っ先を擦りながらやるもんだから堪えが効かない。
ためらいがちに縋り付いていた首を最後はぎゅうと引き寄せて、アリスは降参の白を撒いた。


「くそ、なんかくやしいわ……仕込みに負けた感じがする」


ティッシュを引き寄せて、後始末のため弄る手際さえ舐めるように見られている。
女性との時は、これほど濃密な空気を感じたろうか。
こんなにも、二人きりの世界にはまりこめたろうか。


「物書きはここでもセックスできるらしいな」


長い指が、アリスの頭蓋をひたりと指した。内股から入れた手に双丘を揉まれた作家志望は、この先を予感して目元の朱が耳にまで散る。
何かを言い返してやらんと、と思うがさっき達した疼きが語彙を失わせていた。


「……研究者の卵はどこでするんや?」
「俺に関していえば、ここに入りたい」  


まだ乾いた蕾を、人さし指でクルリとなぞられる。


「うへぇ……ほんまに使うんか、つか使えるんかここ。そこまではちょっと」
「駄目か?」
しゅん、というありえない書き文字が見えそうな顔の友人に激しく動揺する。その弾みで、正しく生理現象の時以外触ったことのないそこを他人の指が行き来する拒絶したい衝動が、うっかり受容する方へと傾いてしまった。
さっきの話もいけない。変態入っているが、その熱意には絆されるものがある。


「駄目っちゅうか……なんや、ブラインドコーナーにライトなしで突っ込むみたいな恐さがあるん。やったことないし」
「俺も初めてだよ。っと、そんなヤブ医者を前にしたみたいな顔するなよ。ゴネたりして可愛いな、ほんとは嫌じゃないんだろ」
「気色悪い物言いすな! っあ」


焦れた指が1本、つぷっと浅く入ってきた。妄想でアリスをどうこうしていた指が、生身のそこに入り込む。いつの間にか火村の息が浅くなっていて、その興奮が感染しそうになる。


「ぬ、抜け、コラ」
「お預け食らってた1年は長かったよ。この20年分の1は俺にとって重い。アリス、もし嫌でも、試すくらいは検討してくれないか?」


検討というのはゴーサイン出す前に行う議論であって、お前は既にとりあえずヤッてみようというトライアルへ持っていっとるやないか、という叫びは口の中で噛み噛みになる。それでもアリスの言い分にノーはなく、答えはつまりそういうこと。


「わわわちょお待った、逃げんから。茶飲ませろ、死にそうや」


少し手を伸ばしたところに、飲みかけの麦茶があった。すこし上体を起こして渇きを癒す。
布団に伏せるように反転してグラスを遠くに置いたら、温められた液状のものが尻の割れ目へ流れ込んだ。太ももの付け根を伝い、奥の茂みまで濡らす。


「なに……?」
「馴らすぜ」


雰囲気も何もないが、後ろを向かせ尾てい骨を突き上げるように腰を上げさせられる。羞恥心があおらるのは当然。
ローションだ、と思うより先にちょっぴり落とされた。
今度は直接蕾の上に。ひやりとした感触に、ビクッと尻が揺れた。昨日火村をつねった足の指が、なにかを挟みたいといったふうにもぞもぞしてしまう。手も触れてない前が、ゆるく立ち上がっているのがヘソの向こうに見えかくれした。


「こんなもの流れただけで感じてんのか?」


ふわっと、首まで熱くなる。男のくせに白くて染まりやすい肌は、さぞかし艶めいた反応をしていることだろう。


「……いうなっ、ァン」


逃げれば余計、腰をくねらせることになる。
逃げられないのを知ってわざと細く、長い時間かけて蕾にローションを垂らされた。クコの実ほどしかない快楽の襞を、糸のようなそれが行き来する。

「中に、入れてくれよアリス。お前に放り出されたら、俺はどこにも行けない」  

さっきは抜けと言っても抜かなかった指は、今は後腔の際でアリスの許可を待っていた。最後のところで火村は、一向に下らない承認を待ちわびているのだ。 体を好きにしたがっている、と思いきやそんな順序を守りたがる。

だからアリスの手で、火村の指を迎え入れた。かなり抵抗はあったが、そうして伝えなければ彼は果てた後で深く悔やむだろうと思った。ここで待ったをかけられて、止まれる状態ではないし、それはアリスも同じだし。

最初は中に滑りを与えるように入り込み、次は広げるようにうごめいた。えづく感じを、頻繁に息を吐くことで逃がす。

「あぁ……やぁ、も……」
「どうしてほしい? アリス」
「だっ……だれが……言え、るか……」
「言えよ。気にするな……俺の妄想の中じゃ、もっと凄いことになってる」
「へんたい……!」


どこもかしこも凛々しい造りをした顔の下に、いったいどれだけの情念があったのか。
さっき後腔に当たっていた、火村のものが頭をよぎった。立ち上がったものが垂らしていたぬめりを思い出し、無意識にくちびるを舐めた。

えづいた感触が、やがて疼きにスライドしてゆくころ、指がアリスの中の蜜層に触れた。素早く悟った火村は、繊細な動きでぐるぐると捏ねるように動いて圧をかけ、痙攣する体を押し込み追い詰める。

「いやぁっ!」

前さえも触らせようとしない火村の腕に噛み付くが、容赦なく中から擦りたてられてバン、と強いフラッシュのような衝撃に撃ち落とされる。


「ひっ!…………ぁあ……ひむらぁ、イっ、クぅ」


ひときわ強い波が来た。
布団を汚す、と思ったが堰を切ったのを止められようか。
温い体液を溢れさせるそこを、火村がタオルで受けた。くっ、くっと制御のきかない体を震わせながら全て吐き出す。
いきなり来た強い快楽で頭の芯を抜かれているのに、更に指を増された。揉み込むようにナカへ潜り込む。


「ここ、引っ張ってる……?」
「あぁ……らわけ、な」


もはや呂律が回りかねた。
襞を抉じ開ける指にも、痛いほどの快感を与えられている。イッたはずなのにもう下腹部が重い、甘い。
ぶるり、と震え腰が落ちるのをなんとか内股で支えながら睨んだ。火村が唸る。


「っ……ち。たまんねぇ……。悪い、尽きた」
「……な、に?」


アリスの襞をすべて味わい尽すかのごとく蹂躙した指が、つぷんと音をたてて出ていく。コンドームを装着するのももどかしく、火村は狭い骨盤を両手で抱えると、


「おれの理性」


というアリスにとっては恐ろしい口上とともに、このうえない優しさで容赦なく身を沈めた。


「そっ、あ、あっ、痛っぁ!」


つぷつぷ、と中からのか、今足されたのかわからない透明の液体が、半身をめり込ませるのにあわせて蜜口から滲む。
痛い、恐い。杭を打たれたトカゲのように、体を捩って啼いた。


「頭んとこ、通った……っ締、ま、る」
「ぁあ、あ…………ま、まだ……?」


一番キツイところを通過した時、自分のソコがかぶりつくような収縮をしたのをアリスは知らない。火村は軽いめまいを感じた。


「お前の負担にな……っても、やめらんねぇ、かも」
「はぁ……っく」
「そのかわり、ゆっくりいこうぜ」


ローションを追加して浅い抜差しを繰り返す。別の快楽で宥められ、なんとか最後までおさめることができた。
ずくずくと、脈打つのはどっちだ?


「う……う」
「安心しろ、俺もうかつに動けねぇ……」


切羽詰まった声にはなんの隠し立てもない。


「……ひむら」


えづくような嗚咽をのんで、なんとか火村を呼んだ。欲も情も与えられるばかりじゃないと。俺も火村と抱き合ってるんだと。もう隠さない眼差しで訴えた。 
それが絡んだ直後、アリスの背中に火村が熱い吐息を落とし、


「そんなに、俺をあおんな」


火村はアリスの尻たぶをつかみ拡げ、骨盤ごと揺らした。
より濃厚な繋がりに、口を閉じる余裕もない。じりじりと二度目の絶頂が近づいていることを、自分の薄い腹部の収縮が教えてくれた。立ち上がったものが垂らす液体を受け止めていた手はぐっしょり濡れている。


「感じてるのか?」
「わるくはない……ン」


我ながら、小さな子が突っ張っているような響きだ。わるくないどころか、またあの波が来そうだというのに。

「俺は、めちゃくちゃいいよ、アリス」

火村は言うが早いか、一度抜き去った。突然空ろになったそこが不安げに収縮する。
仰向けに返されて、アリスの膝を折り畳むように再び沈み込んだ。慣れた後腔はなめらかに飲み込む。しかし突き上げを食らう方にとっては角度がきつい。いくつものキスを顔に落とそうと覗き込まれるから、更に深く受け入れてしまう。


「ん……は……」


折られた両脚を好き勝手に広げられて、アリスは火村を睨み付けてきたが、ピンク色の唇はわなないたきり、どんな文句も紡がなかった。
どうしようもなく流れる汗がその唇に落ちた。
なんの意識もなく舐めるアリスの仕草に、火村の胃の底が震える。「いくぜ」とランニング中の運動部みたいな一言をかけてから、強い突き上げをはじめた。瞬間アリスは身をすくませたが、覚えた蜜層を探る動きをすると


「あ……あ……ん!」


と喉をさらして仰け反ったので希望を得た。
狙ったところを揺らす行為を重ねるごとに、アリスの中は熟れた動きを見せ始める。
腹筋ごと絞り上げてるんじゃないかというくらい貪欲に食まれて、苦しいくらいの波に火村も溺れて。


もうすべての手管を足下に捨てる時が迫っていた。

 

誰もいない下宿。
誰の帰宅も望まない夕暮れが部屋を染めあげる。

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 


「はやまったかもしれん……」
「それは聞き捨てならねぇな」

もはや宵の口とはいえない時間。
たった一組の布団は午後の暴挙でめっためたになっていた。タオルで水拭きをしたのだが、そのせいでまだら模様に拭った後がついている。むしろ買い換えをおすすめしたいほどに。
それについての後悔は火村に任せるとして、だ。


有栖川有栖としての後悔は、『保険』が火村に有利すぎたことだった。
恋人になった彼はそれはそれは執着した。


夜を待たず始めたことは、『保険』の効力を存分にアリスに知らしめたのだ。若い肉体がそれを可能にしたともいう。
風呂をもらったものの指一本動かせない倦怠感に襲われ、なし崩しに終電を逃した。

「お前、こんなに情が濃い男やったか? 計算外や」
「知らなかったか。お前こそあんな……了解。睨むな」

文机に凭れた火村は、朝以来手に取らなかった煙草に火をつける。そうしているといつもの友人なのだが、こちらは常態をすっかり崩されている。体中の痕を家族の目から隠し通すという、難易度の高いミッション付きだ。


腰も頼りなくなって、座れないから座布団の上に腹這いになった。つくづくこの姿勢に縁がある日らしい。空腹に耐えかねていると、時計を見遣った火村が立ち上がる。

「おまちかねのメシだぜ。可能なら机を構えてくれよ」
「無理や。わかれ」
「わかった」

やがてお盆に急ごしらえのトマトソースパスタを持ってきた火村は、アリスの前ではなくその後ろの飯台に置いた。
そしてアリスを起こして長座にしたと思ったら、二人羽織のように後ろに座り込んで、伸ばした長い脚でアリスを挟んだ。腰の立たないアリスは否応なく上体を預ける格好になる。

「キミが何をしようとしているか分かるが俺は賛同できん」

もぞもぞと上体から逃れようとするが、伸ばされた腕にあっさりとかっさらわれる。腰が動かないとバランサーが狂っていけない。そして

「ほら、食えよ」

と、パスタを巻き付けたフォークを差し出されるにいたっては、目眩がしてきた。抵抗するには、差し出されたものの魅力はあまりに強い。
冷凍していたソースだというが、こくのある香りは少しも損なわれていない。とろりと真っ赤なそれが滴りそうに細麺にからむ。
どうしてこの誘惑にあがらえようか。少しTシャツに散るかもしれないと思ったが、どうせ火村のものだと差し出されるままにかぶりついた。かすかにバジルが後引くソースは癖になる味で、ふたくち目から文句を言うのをやめた。
後ろの火村は楽しげに、自分も口に入れながらアリスに食事を与えている。時々耳朶にキスするのはどうかやめてほしいが。

「アリス、あと二往復だな」
「あん? 何がや」
「お前の定期券の利用価値は、あと二往復したら必要十分なんだろ」
「よう覚えとるね、んな話」
「二往復といわず来いよ。お前が俺に会いたくなったら、俺はいつでも歓迎するぜ」
「かー、よう言う。かゆいかゆい! それにいつでもゆうたって、キミかて俺かて忙しい身やん。その山になってる文献は、ただ積んどくためのお飾りやないんやろ」
「全然暇がないわけじゃない。夏休みが明けるまであと二往復分しか会えないと聞かされりゃ、明日帰したくなくなりそうだ」
「……困るなそれは」

いつも通り歯切れ良く喋る友人の口からそういう文章が紡がれ、ある意味うそ寒かったから最後の一口を奪い取る。
それでしばしの無言をキープしていたが、嚥下するかしないかのタイミングで火村の腕の中に落とされた。


覗き込んだ彼はゆるくくちびるを開けて舌を延ばし、自分のそこに落としたりするもんだから息ができなくなる。口角から端々まで舐められて、目を開けていられない。


今日まだ、あれ以上のことをされたらーーーーーーぐっと両の手のひらで胸を押し返す。軽い負荷でそれは叶う。あれ、と見上げると、いつもの大人びた表情が剥がれ落ち、年相応の拗ねた顔が覗いた。

「俺が我慢できなくなりそうなんだよ……アリス」
「火村」
「アリス、もしやめたくなったら、何も残さずに行ってくれよ?」

縋るように、試すように、胸に手のひらを置かれた。
友人の顔をした彼からは想像もつかない頼りない仕草に、アリスは今日だけで何度目かわからない驚きを感じる。 性と愛を軽やかに切り離す彼と、自分に向かってくる一途な彼。どちらも彼らしいといえば彼らしく、そして見たことのない面だった。
そうした新しい面を信じるか信じないか直ぐには決められないけど、火村が切実に自分の中に食い込もうとしていることは、かなり自分を喜ばせている。


だから、その要求は却下する。そういっそきっぱりと。

「そんな先のことはわからんから、そのお願いは聞けん」

 
本当に契約を欲しているのは、どうやら支払人の方らしい。
そうだ、それは保険制度が始まったときからの決まり事だと、ようやく思い至ったアリスは破顔した。

「なにがおかしいんだよ、この」
「君があんまり……珍しいことするからたまらんわ。その顔の方が君らしい。終わらせ方なんて願いなや」
「これは始まってると?」
「違うんか。……んんん?」

そういえば、アリスの方からまだ告げてない言葉がひとつ。

「参ったな、先に言質とっとくべきだったか」
「そっちが名より実を先に奪いにきたんやないか。後悔はないんやろ、俺が選ぶのなら」
「パーフェクトな選択だったよ。お前にとっても、そうであればと思う」
「わかってるんやろ……それで満足しいや」


悔し涙を悟られたのだから、これ以上自分のどうしようもない恋情を明かすのは、もう少し先延ばしにしておきたい。わざと素っ気なく言ってやったら、髪をくしゃくしゃにかき混ぜられて、また顔が緩む。

 

君と笑いあっていると、本当に楽しいと感じる。それは表情筋が脳内を刺激するせいではなく、見えないケーブルを通じ体の奥が心地よく共鳴しているから。この音をずっと聞いていたいと思う。
お互い初めてのキスではないけれど、この日のために歩いた遠回りの道と思えば込められる愛しさも深く、キャメルの苦みさえ甘くて。


だから彼女をアリスのかわりにしていたと分かった時、この顔は熱くならず冷たくなった。自分が受けるはずだったキスを、盗られたような気さえしたから。
せめて、喪失したものを取りかえすためのキスはしたくないと、自分に言い聞かせて手を伸ばす。


 

純粋な、惚れた者同士のキスがしたい。

 

 

行き先の知れないこの箱船に、一口かけてみようではないか。
沈めば一蓮托生の、矛盾さえ了解。




行き先の知れないこの箱船で、夜迫る海をきみとなら渡ってみたい。

 

end 

 

 



 

お題から滲む、身を捩るような悲恋っぽさを少し削いでしまったのは青いふたりだから…。行方しれずの恋って!恋ってむずかし!
2007/3/27
 

back

menu