本田 明先生

 

使用教材

皆様に残念なお知らせをしなければなりません 当団創立以来、指揮及び指導を40年余りいただいてきた音楽監督・本田明先生がケガの療養も虚しく平成29年7月に亡くなられました。
創立以来、先生が夢見た「太田の地にクラシック音楽を身近で当たり前の存在に」と言う活動の中心としてご指導を頂いてきました、私たちにとってかけがえのない先生でした。.
本当に残念でなりません。ここに謹んでご冥福をお祈りします。
少しでも感謝と哀悼の意を表したいと思い本田明先生プロフィール及び略年譜を掲載させていただきました。少しでもその功績を後世に伝えたいと思います。
今後とも太田市民吹奏楽団をよろしくお願い致します。

2017年11月 太田市民吹奏楽団 団長 岡部 修一


 

本田 明(ほんだ あきら)先生 プロフィール
昭和33年群馬交響楽団フルート奏者を振り出しに、東京交響楽団などでフルート奏者として活躍。 昭和50年から太田市立商業高校吹奏楽部の指導を手伝い市民吹奏楽団を結成。 働く青年達を指導、クラシック音楽を分かりやすく、市民とともに楽しむ音楽を目指して活躍をしている。 平成3年4月、太田市文化振興事業団事務局長に就任。アムステルダム・コンセントヘボウ管弦楽団招演、宮内庁楽部による「雅楽」の公演、モディリアニ展などを成功させ、太田市に世界的な芸術文化を体験する機会を作った。  下記にご紹介するのは、故カール・ベーム氏が、1980年秋に来日された折り、 太田商業高校・定期演奏会に寄せられたものです。
親愛なる本田へ太田商業高校の定期演奏会の成功を御祈りします。フォルムの美を世界の人に分ち合える私の幸せを、貴男が地球の一点である太田で具現させるのを私は興味を持っています。ウイーンで貴男とディスカッションした日を今でも覚えています。 倫理と芸術の融合、これは永遠です。 本田君の考えは私です。太田に私がいると思うと大変心強いです。1980.11. 7. カール・ベーム

 

本田 明 先生 略年譜

~生誕から太田商業高校・太田市民吹奏楽団との出会いまで~

昭和14年(1939) 群馬県碓氷郡松井町(現安中市)に9人兄弟の6男として生まれる。幼少の頃は体が大きく親分肌で“西郷さん”の渾名で呼ばれたことも。

昭和30年(1955) 群馬県立高崎高校に入学し吹奏楽部に入部。当時の顧問は、後に日本吹奏楽連盟の理事長になられた永長信一先生。最初はアルトサックスを担当、後に兄がフルートを買ってくれたのを機にフルートに転向。3年生の時には部長を勤め、指揮もする。

昭和33年(1958) 卒業と同時に東京藝術大学に通いながら群馬交響楽団に入団。同期に盟友となるトランペット奏者の片岡良允氏がいた。この頃、群響事務所に太田からフルートを習いたいと言う女性が現れる。毎週通っても習いたいという熱意に押されレッスンが始まる。それが後の奥様。

昭和36年(1961)頃 群響内の楽団改革で、改革派の旗頭になるも群響を退団。

昭和38年(1963) 東京交響楽団に入団。

昭和39年(1964) 当時来日していたイギリスの大作曲家ベンジャミン・ブリテンが、日本人演奏家を集めてヨーロッパ周遊オーケストラを組織する話が持ち上がり、羨ましいと思っていたところに、そのメンバーのフルート奏者が直前に急病に罹り、たまたま顔がよく似ていたためパスポートを借りて潜り込んでしまったという、ウソのようなホントの話でヨーロッパ周遊オーケストラと共にヨーロッパへ。イギリスではエジンバラ音楽祭、ウィーンでは大指揮者カール・ベームと出会い、ロシアではロジェストヴェンスキー宅に居候していたとの逸話も。また当時、東ドイツの楽器作りの町マルクノイキルヘンにて名器フィリップ・ハンミッヒを手にする。カール・ベーム氏とはその後来日の折に親交を重ね、最後の来日となった昭和55(1980)年秋に、当時のウィーン・フィルハーモニーの楽団長ウィルヘルム・ヒューブナー氏を通じてメッセージ(別載)を賜ることとなる。

昭和40年(1965) 予てより交際していた佐藤志津江さんと結婚、媒酌人は永長先生ご夫妻。当時住んでいた東京では持病の喘息が悪化することがしばしばあり、奥様の提案で太田に住んで東京へ通えばということで、東響を退団しフリーとなる。この頃、小川ひろしショーや昼の歌謡曲等に出演、また作曲家富田勲氏とも親交があり、NHKの新日本紀行のレコーディングにも参加。

昭和41年(1966) 長男、敏明さんが生まれる。この頃は車で東京へ通う日々で、奥様いわくほとんど家にいなかったとのこと、敏明さんもなかなか父親の顔を覚えなかったとか。奥様は高校卒業とともに習った美容師の仕事で独立。

昭和44年(1969) 不規則な仕事柄、持病の喘息を悪化させることも多く、心配された奥様は就職を提案。大家さんが富士重工の部長をしていた関係で富士重工群馬製作所に入職する。

昭和47年(1972) 太田市龍舞町に待望の新居が完成。この頃の音楽活動は、太田演奏家協会での演奏や吹奏楽講習会での講師、自宅での個人レッスンを行う。

~太田商業高校・太田市民吹奏楽団との出会い以降~

昭和50年(1975)3月 太田商業吹奏楽部顧問の高橋竜右先生より1本の電話が入る。ここから太田商業吹奏楽部への指導が始まる。この年の12月の第4回定期演奏会で、ドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」を演奏。この演奏のために早朝ランニングで体力強化をされたという逸話も。

昭和51年(1976)4月 この年の卒業生を中心に太田市民吹奏楽団を結成。自ら常任指揮者となり、団長には富澤公晴市議会議員(当時)、事務局長に高橋竜右先生、団員は10名足らずでの船出。7月、「第1回緑の中の音楽会」を当時の太田中央公園で太田商業吹奏楽部と合同で開催。スーザの「雷神」を演奏中、実際に雷鳴が轟き、演奏を中断して市民会館に避難したというエピソードも。緑の中の音楽会は、現在はぐんまこどもの国に場所を移して継続開催されており、今年で67回を数え22団体が参加する大イベントに成長。

昭和52年(1977) 3月 団員と学生の演奏技術向上を目指し第1回アンサンブルコンサート開催。現在は太田市吹奏楽連盟に引き継がれ、今も多くの団体が参加するイベントに成長。

昭和54年(1979)10月 第5回緑の音楽会開催の夜、本田夫妻の40歳を祝う「W成人式」を行う。音楽関係者他多くの方々が駆けつけ賑わう。

昭和58年(1983)12月 太田商業吹奏楽部第12回定期演奏会で、盟友片岡良允氏の指揮のもと、シャミナーデのフルート協奏曲を演奏。

昭和59年(1984)9月 市吹待望の第1回定期演奏会を開催。市吹創立8年にしてようやく編成が整い定期演奏会が実現。当時の吹奏楽の演奏会としては異例のオール・クラッシック音楽のプログラムとなる。企画にあたっては多くの団員が異論を唱えるも、本田先生は頑として受け入れずに押し切る。また、団員には協奏曲の独奏に挑戦させ、個々人の演奏力向上を目指した。演奏会は成功しその後もクラッシック音楽のプログラムを継続。

昭和62年(1987)11月 第1回ポピュラーコンサートを開催(後のファミリーコンサート)、映画音楽中心の曲を指揮。その後、秋のクラッシック音楽中心の定期演奏会に対し、親しみやすい曲を中心としたコンサートを春に開催し、現在も継続。

平成2年(1990)10月 本田夫妻に仲人いただいた8組の仲人会と、夫妻の媒酌人永長先生を中心に、夫妻の結婚25年銀婚式を祝う。

平成3年(1991)4月 太田市文化振興事業団の創設に伴い、富士重工を退職し同事業団の事務局長に就任し、太田市の文化振興の舵取りを担う。在任中、ロイヤルコンセルトヘボウ管弦楽団の招聘やモディリアーニ展、宮内庁雅楽の演奏等、太田市民に第一級の文化を提供する活動を行う。

平成4年(1992)5月 高崎高校吹奏楽部創部65周年記念演奏会を、OBを中心に開催。この演奏会の指揮を行う。その後の記念演奏会(5年に1度)の指揮、毎年恒例の高崎高校OB会時の現役吹奏楽部の開会演奏の指揮を行う。

平成10年(1998)4月 ファミリーコンサートに日本を代表するドラマー・猪俣猛氏を迎え、見事なドラムソロが披露される。同年11月の高崎高校15回定期演奏会に、地元ピアニスト・根元照代さんをソリストに迎え、ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」を指揮。

平成11年(1999)11月 第16回定期演奏会に日本を代表するサクソフォン奏者・武藤賢一朗氏を迎え、ロナルド・ビンジの「サクソフォン協奏曲」を指揮。

平成14年(2002)4月 ファミリーコンサートで、尾島町第九を歌う会を迎えて、ベートーヴェンの第九交響曲の第4楽章「合唱」を吹奏楽版で指揮。尾島町第九を歌う会とは翌平成15年にも「合唱」を再演。

平成20年(2008)12月 第25回定期演奏会に元群馬交響楽団の打楽器奏者・岡昭男先生を迎えて、ミヨーの打楽器協奏曲他を指揮。

平成21年(2009)11月 第26回定期演奏会に元群馬交響楽団のクラリネット奏者・木幡仁清先生を迎えて、ウェーバーのクラリネット協奏曲他を指揮。

平成25年(2013)11月 第30回を迎えた定期演奏会で、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」他を指揮。パンフレットには、クラッシック音楽の本来の姿を取り戻したいとの思いを綴る。

平成28年(2016)4月 ファミリーコンサートで吹奏楽オリジナル曲と映画音楽を指揮。これが本田先生の指揮による最後の演奏会となる。







指揮風景