3.



 

廃墟のような夜中に限り、副都心は魔的な引力がある。
しかしアリスは一顧だにせず、俗っぽいネオン煌めく東口方面へと向かった。



バスルームに消えた背中。
徘徊する自分。
真夜中のビル街は寒い。
寒いやんか、火村。
黙っとったらわからん。



今朝はアリスのベッドで二人目覚めた。火村の黒く濡れた瞳が「起きろ」と覗き込む。
間違いなくただの友人だった男が、半裸で自分を抱き寄せていた。こちらも同じような格好だ。
シーツが二人分の体温を包むようになってから半年。十を超える夜を重ねながら、まだ行くところまでいってない二人は、少しぎこちない笑いで朝を迎えることが多くなった。


アリスが進んで挿入を求める立場を選んだのに、 最後まで快楽を持続していられない。体がどうしても引いてしまう。
それは火村にも伝わり、いつももどかしさを伴うセックスになった。労るように手淫でいく日もあれば、しびれを切らしたように無理やり進めようとする日もあって、 彼はいつも綱渡りで情動のコントロールをしているようだ。
こちらが無理やりでも、傷になってもいいからと言えたならいいけれど、あの慣れない異物感はほとんど恐怖だ。
文字情報を得ても、思い通りにはいかない。
火村への情欲は確かにあるのに、なかなか開かれない体。
後ろで繋がることが至上命題ではないが、衝動と気遣いが不器用に折り合いをつけた夜が明けると、目覚めにはどこか焦燥感が残る。

『傷になってないか?』
『大丈夫やと思う。あんま気いつかうなや、俺かてやりたくてやってん』
『そっか。ホッとしたよ。俺は、いつ止めたいって言われるかとヒヤヒヤしてた』


あまり冗談にも聞こえなくて、俺は水をかけられた気がした。 解けないなにかがこの手足に絡まって、火村の体温を隔てているような。
体を合わせることは絶対ではない、けれど。 こんな朝に、火村の中に残るのが次への期待ではなくて重荷だったら、とても悲しいと思った。
半年という時間は決して短くはない。
そして腫れ物のように扱われる時間は長く、互いを少し無口にさせた。
で、これが煮詰まった結果かと思うと、鍋の中身の不毛さにアリスはお玉を投げ出したくなった。


火村がアリスに傾いたのはいつなのか知らない。
どれくらいの月日、火村に想われていたのか。
恋の深度はどのくらいなのか。
アリスが無造作に扱う思い出も、火村にとっては極上のものだったりする。例えば、作り過ぎたギョウザを二人でつついたこと、なんて言う。

これのどこに切なさを見いだせるのかわからないが、これは主観の相違だし、摺りあわなくて当然。
今は恋人で、主観の相違はそのままでも、突き合わせる必要がある。
立ち止まって、らしくない沈黙なんかするんじゃなかった。


自分の中でも、相手との間でも折り合いがつかないなんて許せるものか。
もう気持ちは痛いくらい求めてるんだから、今夜ナカから落としてやる。
セックスにこだわってるんじゃない。火村にこだわりたいなんて、言ってはやらないけど。












何となく頭の中に入れていた地図を頼りに向かった新宿二丁目は、存外あっさり行き着いた。
あまりキョロキョロしていると物陰から恐い人が出てきそうなので、パッと目についた小洒落たネオンサインのバーに決める。[midnight cowboy only]という小さなパネルがドアに掛かっていて、扉の向こうから漂う世界が如何なものかと少し気押された。 挫折と孤独を味わう男達の物語は、決してそういうテーマを含むわけではないが、何故か隠語になっていると聞いたことがあるからだ。ホモの。

ある種期待を込めて扉を開く。そこそこ客も入った店内は、居心地のよさそうな雰囲気だ。

「いらっしゃいませ」

カウンターの手前に座ろうとしたら、声をかけてくれたバーテンは空いた中程の席を薦めてくれる。逡巡して、薦めに従った。 熱いおしぼりを貰って、水割りを注文する。バーテンが突き出しとグラスを置くタイミングで、マスターと思しき黒づくめの男性が入れ替わりに前に立つ。

「はじめまして。ゆっくりしていってください、僕はマスターのミカと申します」

差し出される名刺には、フライング・フィンという店名と『三佳 ハルキ』。つい名刺を探って持っていないことに気付くと、別の意味に捉えたのかマスターは苦笑していた。

「こういう場所ですし、訳ありで当然ですからいいんですよ。さ、楽しい夜に乾杯しましょ」
「乾杯。スマートさに欠けるのは堪忍な、ビギナーやから」
「おやおや。関西の方ですか?」
「ええ、大阪です」
「嬉しいな、初恋は大阪の人だったから」
「三佳ちゃん、初めては北陸人だったっつてたじゃん?」

嘘か真かわからないご挨拶に、空席をひとつ挟んだ左隣の客がポンと茶々を入れる。ごく普通のサラリーマンに見えるが、この店に慣れたふうだ。カウンターの中のマスターは、サラリとした黒髪を揺らして笑った。 

「やだなぁ、初恋と初めては違うんです。初恋は成就しなかったからね。だからこそ美しく、心に残るんですよ。あなたと僕のおつき合いは是非よしなに。セカンドラブということで。お兄さん、なんて呼べばよろしいです?」
「あー、片桐です。よろしく」

自分の名前はあまりに独創的すぎるので、わが担当の名を借りた。許せ。隣席の人物は人懐っこい質らしく、更に水を向けてきた。

「片桐さんは大阪から出張?」
「はい。まぁ私用兼ねたものですけど」
「どんなご用か気になるな。お時間よろしければ僕みたいな年上も試してみません?」
「木村さんたらもう。片桐さん、この人は恋人探しですかって言ってるんです」

いきなり明け透けな話になって、男探しの場でもあるのだということを思い出す。 マスターのくだけた言葉は少し優しいを通り越して女性的ですらあったが、彼のすんなりした風情には良く合っていた。 「いや、私にはもう、その特定の相手はおるんで、そういう出張ではないです。彼も一緒に来てるし」

彼氏という言葉も候補にあったが舌を噛みそうなのでやめた。

「残念、良いひと居るんだ」
「片桐さんてば彼氏置いてきたの? あっらー、今度は一緒にきてね」
「商売邪魔するわけじゃないんだけどさ、いいの? 彼氏放置で。そういうプレイ?」
「放置されとるんはこっちのほうなんです。男やけど、男の気持ちを分かりかねるってどういうハナシなんでしょうね」
「旅先で喧嘩はきついよね。彼氏と何で揉めてるの?」
「なんやろ。色々あって、頭ぐしゃぐしゃで」

目の前にはいつの間にかおかわりが置かれていた。すこし濃い目の水割りで、さめかけた頭が再び混沌の中に引き戻される。

「お兄さんに話してみない? 溜めたら体に悪いよ、不満もアソコも」
「木村さん、彼引いちゃいますよー。好みだからって初対面から弾けてちゃ」

雑談しながらもマスターは、手際よく盛り付けられた惣菜をアリスの前に置く。レンコンとシシトウの揚げびたしだ。 少し小腹が空いていたので嬉しい。 ぱくつくと、なんだか喋りたくなるのは胃と脳が直結しているみたいで複雑だが。
木村某はケータイに着信を確認すると、やや慌ただしく席をはずした。あまり他人の耳は多くない方がいいので、思いきって口にする。

「うーん。ズバッと言っちゃってもええんでしょうか」
「どうぞ」 
「そのう、彼とまだようできんのです。わかります? あの話なんですが」 
「ごくプライベートでデリケートなお話ね、オーケー。ところで先に聞いといて構いません?」
「なんでしょう」
「タチネコどっちなの?」

役割分担をそう呼ぶことを知っているが、いざ自分がこれですというのはなかなか照れるものだ。慣れの問題だろうか。

「ネコ、になるんやろうね。そう」
「あは、了解。僕もそうだから、ちょっとは役立つ助言ができるかも。で」

友人だった相手と半年前から付き合いだして、当然交渉をもつわけだが、恐怖が先に立ってなかなか出来ない。
今日は良く分からないことで摩擦があって、それを切っ掛けに自分の中で鬱積していた感情に飛び火してしまった。
いろいろ焦げ付いてきたので、とりあえずここに飛び込んだ。
話を分かりやすくするために単純にしたら、童貞青年の葛藤みたいだなぁと笑えてきた。

「ジレンマが花いちもんめしてるみたいだねぇ。とりあえずサクッと話してみれば? ってああ、ごめん。それができてれば簡単だよね」
「なんていうか、ヤるだけじゃないって思うんやけど、ヤれてもないのにそんな境地には立てへんっちゅーハナシで。知識とか基本的なことは勉強したし、気持ちもちゃんと向かってるんやけど、あかん。受け入れるのが向かん体ってあるんやろか」
「出るところで入れるところじゃないからねー本来。そういう既成概念が強い人はまず受け入れられないよね。あ、片桐さんはそこはクリア? あと生得的に肛門括約筋とかが固すぎる人も辛いかも」

「それは、一応、大丈夫かと」
「へぇ、じゃあ問題ないんじゃない? いいとこも」

端正な顔の癖に、中指を意味深にうごめかすから、もう少しで水割りが入ってはいけないところにいきそうだった。咳き込みながら、ふるふると首をふる。

「ええもなにも、俺にはなんとも……まだ分からなくて」

いや、本当はなんとなく分かりはじめている。そこを擦られると、フラッシュを焚かれた時みたいに視界が破裂して、フッと重力がわからなくなって、すがりつきたくなるのだ。

「ふぅん。自分でもしてみるといいよ。即物的に理解しておくと安心しない? 男は」
「えっ、自分であれを」
「まさか彼氏にさせておいて、汚いからヤダとか言わないよね」
「そ……んなわけない」
「恐いんだね。ああー、僕にもそういう時期あったなぁ。分からないから恐怖なんじゃない?」
「人体の構造くらいは知ってる。でも痛いから引くねん」
「耳鼻科の治療と似ていてね、要はツッコミ方だよ。アレもすべからく痛いわけじゃない。上手なセンセなら、ノズル突っ込まれて吸引されても全然痛くない。これは知識を超えたところにある、手先の感覚と想像力の問題なんだ。幸い、鼻より扱い方はやさしいよ。手順、伝授してあげる」

バックヤードに引っ張り込まれるかと思い、一瞬ドキッとしたけど、差し出されたのはコピー用紙だった。「セルフでアナル洗浄……」という文字に仰け反る。

「ネコのための下準備って結構ぶっとばされてるからねー。僕の知り合いがセーフセックスイベントのフライヤーを作ってて、そこで紹介してたやつ。もうイベントは終わってるけど、あまってるから持って行って。参考になる?」
「いままで自己流やったゆうんがよくわかったわ……」
「話変わるけど、僕ねぇ、B級スプラッタとかホラー映画だめなんだよね。『ダミアン』も『ゾンビ』も『13日の金曜日』も、流行ったけど全然だめだった」
「……?」


突然レコードの針が飛んだみたいな話の飛躍についていけない。とりあえずこの『手順』のほうがアリスにとって余程ホラーだが。 

「でもね、ホラー映画の様式とか、記号とかを知ってから臨むと、恐くても楽しめるようになってきたんだよね。イタリア・ホラーの朱色の血のりとか、たまに見愡れちゃうし。だからね、よかったら克服にお勧めのゲイ映画なんかもあるよ」



そこまではいいです、と世話好きのマスターにお手上げのポーズを作った。
帰り際、どうして苦手なB級映画なんか見るんですか? と聞いたら、「今彼が好きだから、一緒に楽しみたくて」だと。

















洗い髪が乾く頃に、いよいよ不審が不安に変わってきた。


「ケータイ置いて、どこまで行ってんだあいつは……」


火村英生は櫛も通さない若白髪の頭を、焦燥のままにかき上げた。
短く見積もっても、出て行ってから2時間ばかり経っている。
あれももう一人前の男なのだ。夜歩き、夜遊びの経験は年齢なりにある。子供じゃないから自分の身は自分で守るだろうから、そういう心配はしていない。
するのは最悪の想定だ。


会話の途中でバスルームに入ったのは、確かに素っ気なかったと思う。
アリスが話し合う態度をとっていたのに、さっきは忍耐と根気が足りなかったと言われても仕方がない。
だからといって、メモの一つも残さず居なくなるのはどういう仕返しなのか。
火村は疲れていた。
忍耐と根気と愛情をかき集めての精いっぱいがあれなのだ。
プライドもあったかもしれない。


なにもかも投げ捨てて、
箍を外して、
アリスを組敷きながら、
新幹線で交わした元彼女との会話を問いただしたくなんかないのだ。


そう、元彼女が、新幹線にわいて出た。





たしか二年前まで付き合っていたという、広告代理店のディレクターで岩佐という女。
俺はアリスに女ができたという時点で、電話も泊まりも封印したから、その数年間はほとんどアリスからのコールで繋がっていた。彼女のこともそこから伝え聞いた。


会いたくもなかったが、一度だけアリスのマンションでばったり出くわしたことがある。
年は三つ下だが、アリスよりよほど世慣れた顔つきをした、隙のない身のこなしの女性だった。アリスは昔から、ああいうキャリアウーマン然とした女性や、独立心旺盛な女性に好かれる傾向がある。朝井女史含めて。


岩佐女史はアーティストからサラリーマンまで公私ともに接する機会が多く、業界人らしいリベラリストで、結婚の概念からも自由だった。


『結婚はただの行政手続き。定年退職後にしたって構わない』


かく言う女でも、いつ、あの紙に書いてみましょうか、と言うかわからない。
火村にとってそれは、アリスを永遠に失うに等しいことだった。
岩佐の存在は「友人」というポジションを脅かすものではないが、恋情を傾けていた火村としては見事に「アリスの隣」という狭い足場から突き落とされたのだ。
もう決して冗談にも愛を告げたりしてはならないと思った。アリスを惑わせるのは本意ではない。
破るつもりのない禁忌は、まったく苦いばかりである。


学生の頃、アリスは幾人かと付き合っていたようだが、あれはママゴトの域を出ていなかったから、嫉妬こそすれここまで苦しまなかった。
今回本気なら、一生物になる関係だ。
部屋でたったひとり食事の支度をしているときなどに、ふと浮上する絶望感を、握りつぶし、握りつぶしして痛みに慣れていった。



あの夢に、アリスと彼女の仲睦まじい光景がクロスオーバーしたものも見た。
あれほど惨めな夜があるだろうか。
痙攣する臓腑のせいなのか悪夢の余波なのか、分からないまま吐き戻した。
表面を完璧に繕ってまともなつもりでいても、人はこうして狂っていく。
狂ってゆくのだな。
まるで他人事のように思った瞬間、確かに自分は絶望を深くした。
それでも自分自身に縋って、爪を立てて、耐えた。
アリスには縋らない。
俺の悪夢に薄々感じることがあるにもかかわらず、気の置けない友人、という枠組みを絶妙のバランスで保ってくれている彼。
遠ざけられ、孤独を与えられても、自分が安心したいばかりに他人に立ち入ったりしない。そうした決断はアリスのものだが、強いているのはやはり自分だと思う。誰も触れてくれるなと、どん底の夜に拒絶し続けた。
独りで戻るから、と。
もし離れられないのなら独りで立ち上がって、友人のポジションへと立ちにいくべきなのだ。
だからアリスに縋る資格はない。



かような火村とっての最悪の事態と懊悩の時代は、アリスからの電話で断ち切られた。
あれほど悲壮な決意をしたというのに、二人は静かに別れていたのだ。

『振られたんや。お互い昼も夜も無い世界だから、日常が擦り切れそうだって』

女のコピーライトって微妙すぎてわからん。と、下手な冗談を呟いた。再び空いたアリスの隣に、俺は唯一の友人という顔で片足を入れていた。
これが約二年前の出来事だ。





話を戻そう。
この因縁浅からぬ岩佐女史が、今朝乗った新幹線にいたのである。
あろう事かアリスの隣に。



こんな日に限って、タイミングという魔物がよく働きやがる。
火村はシンポジウムに招かれたゲストだったので、新幹線のチケットはすでに手配されたものがあった。
アリスは当日購入の適当な指定席券だったため、火村の隣ではなかった。
さらに。
火村は基調講演を行う某大学名誉教授の最新刊を、最速で読む必要があった。
アリスはとりあえず寝たいという。
なら別々の席でもいいじゃないかという話になって、いざ着席したらアリスの隣に岩佐女史がいたというわけだ。それを知ったのは名古屋駅を通過した頃。


禁煙車両を抜け出し、ついでにアリスの顔を見ていこうと座席を探したら、すぐに見つからなかった。
並んで会話を交わす男女など、目にも入らなかったのだ。
おや、と振り返って、ようやくそれがアリスと隣席の女性との光景だと認識した。
岩佐女史とはその時気付かなかった火村は『またぞろファンとやらに捕まったのか』と幾分面白くない感情がとぐろを巻いたが、とりあえずその場は立ち去った。
大人げない行動で、他人の記憶にいちいち残りたくない。


到着してからは時間に追われて確かめる機を逃し、更に数時間後経過してようやく『しまった』と舌打ちするのだがすでに遅し。
有楽町で吠えたところで、振り返るのは専門家のお歴々と学生とエトセトラだけ。
いや、心の中で叫んだよ。


優秀と自負するメモリがこんなにも遅く記憶を呼び出したのは、きっと彼女の変化のせいだ。
あんなに柔らかで、どこか隙のある物腰ではなかった。
真っすぐな黒髪は相変わらずだったが、トレードマークの黒スーツではなくピンクベージュのワンピースなのも罠だ。
アリスに至っては、フラれたくせにミステリ談義を嬉々としてぶっていた。
頭の芯が冷えてゆくのに、喉の奥は灼けそうになる。


半ば機械的にディベートしたパネルディスカッションは、予習を完璧にしていたおかげで有意義な意見を言えたつもりだ。
このような場には、ひとりどうしても合わない相手というのはいて、余裕のない時に限って喧しいからついこちらも丁寧にやり合ってしまった。
シンポジウム終了後、親睦会があったが、以上の流れから早々に抜け出せた。当日配られていた資料は鞄に入らないほど大きいのは、一体どういう効果を狙っているんだ。
両手が塞がっては、煙草だって満足に吸えやしない。


アリスのことが気になって、何もかもが煩わしくなる。
今日はおそらくいつものコースを辿るのだろうが、一人で行かせた事に猛烈な後悔を覚えた。
まったく不条理な妄想だが。
ピンクベージュの裾が目に焼き付いて離れないから、仕方ない。


アリスにしてみれば、昨日の夜更け、さんざん耳が解けそうな睦言戯れ言を吐いた男が、急転直下の不機嫌な様でいたら理解できないだろう。
それはわかるが、岩佐女史のことを全く口にしないのも、こっちの不安を煽ってるって自覚してほしい。
ああ、自覚を求めること自体、アリスにとっては何の脈絡もないことなのかもしれない。
アリスは知らないのだ、俺の惨めな夜を。


 

分かってほしい、でも言わせないでほしい。
俺はわがままだ、自覚しよう。




アリスの言うことはあまりに真っすぐで、火村としてはもどかしいほど鈍く「それは不正解」と額に札でも貼付けてしまいたい衝動を抑えきれず、バスルームに逃げ込んだ。
扉を閉めた時、恋人はどんな顔をしていたか見ていない。

ベッドサイドに置かれた携帯電話を見つめて、頭を抱え込んだ。
ここにあったんじゃ、繋がりもしねぇ。
なかば無意識にキャメルに火をつけ、三つの事態を想定した。


ひとつ、余所に宿をとった。
部屋にいたくないという理由から。
この想定の矛盾点は、アリスの持ち金がそうないこと。定宿の片桐宅に行くにしても電車がないこと。タクシー代をはたいてまで、残業を終えた勤め人の家に駆け込むだろうかという疑問。

ふたつ、夜明かしできる盛り場に行った。
ひとつめと同じ理由から。
この想定の矛盾点は、ほぼない。やはりネックは持ち金につきるが、やりようによっては一晩くらい平気で過ごせる街だ。
二つ目をシュミレートすると、恐ろしい結末もあったがそこまでアリスは馬鹿をやらないと信じている。

みっつ、岩佐女史に連絡を取った。
彼女もボストンバッグを提げて同じ駅で降りていたから、こちらで宿を取っているはずだ。
理由は考えたくないが、複合していると見て良い。
矛盾は……アリスが俺を選ぶなら、その道は選ばない。

「まったく論理性に欠ける……根拠もない、想定ですらない」

寝取られ亭主の邪推だ。
今夜中にシンポジウムの雑感や記録をまとめておこうと思っていたのに、まるで手につかない。
いやここまで悩んでおいて、今さらそんなこと言ったってしょうがない。後だ後。まんじりとせず夜が明けるのを待つのか、それとも着替えて行くか。
灰皿に吸いさしをねじ込む。
新宿を隅々まで訪ね歩いた方がマシだ。一秒と迷わず火村は立ち上がって、浴衣の紐を解いたとき、細い解錠の音がした。

 

 

「あ、起きとったん」

振り返ると冷気を纏わせた細いシルエットが、頼りなげに立っている。
とたん気が抜けた。

「どこほっつき歩いてたんだよ」

それでも出てくる声は地を這う低音。地上で最も求める相手がここに帰ってきたというのに、素直になれない自分の頑さが嫌になる。

「新宿二丁目」

何でもないように言い放ったこの推理作家の狙いは何だ?
口元にはうっすら笑みすら浮かべてやがる。

「作家的好奇心もほどほどにしろよ。それとも新しい発見を求めたか?」
「かもな。そういう店に行ってみたかったし。なかなか素敵なマスターで、有意義な時間を過ごしたわ」

たった一言の肯定が、鮮やかにめり込む。俺は言葉を探した。それこそ、回りくどい自分を殴りたい。

「頭が冷えたよ、アリス。ここを出る前に言ったことには答えなくてもいい」

これが今かき集めた精いっぱいかと思うと、教壇の上に立つ資格を疑ってしまう。
逆にアリスは、いつの間にか圧倒的な存在感でこちらに挑んでいる。

「本気か? だとしたら、お前は全然冷えてへん。それってめっちゃ腹立つことやぞ。手の内でカンペ見ながら人を試して、おまけにどうでもいいってどういうことや。俺はお前に振り回されて、知る権利もないんか」
「違う。俺は、」

続く言葉を探したが、いかんせん不利だ。子供っぽく拗ねた手前、そこを突かれると反発心が頭をもたげて、手の内を握り込んでしまう。

「オチないんって、どーゆうクイズやねん全く。偉そうにゆうたくせに」

アリスは苛立った様子で薄いダウンジャケットを脱ぎ捨てた。その勢いのままどんどん服を脱ぎはじめる。せわしない様子を、火村は多少呆気にとられて眺めていた。
どうやら風呂を使いたいらしい。
扉に手をかけたところでアリスは、ベッドサイドで突っ立ったままの火村を

「寒いんや。しばし休戦。寝るなよ」

と、人さし指で撃ち抜いて、バスルームの扉を閉めた。
そこで火村は、かすかに笑っている自分に気が付いた。

 

 

 

 



テーマ曲は『グウェン姉さんのねじまき行進曲』♪ワリラー! うちのふたりは…後ろ向きにまきすぎ。次回完結です。最後までおつきあいいただけるとうれしいかぎり。

back/next

menu