2.






「なんや」
「こうしていれば、絶対安全と思わないか?」

細められた瞳が、すっと手錠を見下ろす。カサカサに乾き骨張った彼の手が、シートの上に投げ出されたアリスの手を握り込んだ。

「幼稚園以来やな。乗り物に乗るときはオトモダチと……」

テ ヲ ツナギマショウ
最後の一文だけ声を消して口だけ動かした。
アリスの返しに軽くウインクした火村はいつもよりずっと浮かれてて、ああ楽しんでるんだなと感じて、それがやたらに可笑しくて。
張りつめた緊張が緩んだ。



だがそれも一瞬の事。



「たけぇええ!」

真後ろの女の子が粗暴な声を上げ、その声にまた心臓がジャンプする。
とりあえず中途半端に繋ぎ合っていた火村の手を握りなおし、ちゃんと手と指を繋ぎ合わせた。
彼の手のひらの温度は低めで、指は意外に細め。必要以上に力を込めないよう気をつける。


いまだって相当ドキドキして、手のひらに汗をかいてしまいそうだ。
たたん、たたん、と無機質なまでの単調さで車両は恐ろしい傾斜を上り詰めてゆく。
空に向かって発射してしまうんじゃないのかこれは。

「高けぇよ! マジマジまだ上がんの!?」

また女の子の洪笑が弾ける。もうそんなの気にもならない。先のレールが全く見えないほうがアリスをたまらなくさせていた。
とても高い所に連れて行かれる。下の人間も小豆粒のようだし、六甲山もきれいに見えた。
パノラマの風景が眼下に広がり、蛇のようにうねるレールが遥か下方にあった。 外側から見た時にはそれほどの高低差があるように見えなかったが、実際に乗り込むと全然違う。

「ヒュー。ジェットコースターも進歩してんだな」

火村は余裕の口調で口笛をかましている。

「そうやぞ。心してかかれ」

ついに先頭車両の頭が向こう側へと滑り始めた。



まだ向こうが見えない。Aラインを描く最初の山の下りがくるぞくるくる……。

「きたぁ……!」

つり上げられたピークでくらりとする。角度は付いているはずなのだが、殆ど垂直に見えた。
これって死ぬんじゃないのか。
ひやりと嫌な汗が出る。
おもわず火村の右手を握る指に力が入ってしまったが、それを緩める間もなく車両は一気に地上めがけてレールを滑り落ちる。

「ぎゃぁああ」

後ろの女の子の叫びなんかもう気にならないくらい8台全部阿鼻叫喚している。
巨大な手を持った悪魔がプラレールで遊ぶ子供のように、この車両を動かしているとしか思えない。



長い。下り坂があまりに長い。
自由落下の様相を呈して来た。
フリーフォールみたいに足元が浮いてきて、一瞬無重力を感じた。正直怖いなんてもんじゃない。
もう止められない、落ちるしかない、任せるしかない。
レールを駆け抜ける一瞬に全てを預ける。
意志なんかすっとんで、あっという間に体は攫われるのだ。



マシンと、運命とに。
自由落下と過重力と遠心力と視覚効果に、内臓と血液と交感神経がびりびりいわされて、死と遊ぶのが大好きなモンスターが体の中で狂喜している。
可能性だけ語れば車に乗る方が死の危険は多く、ジェットコースターは飛行機より怖くない。
でも自分の中のモンスターが喜ぶから、死を想像して興奮に震えるから、こんな安全で手ひどいマシンにハマるのだろう。
涙が出そうなほど面白い。



レールと車輪が精緻に噛み合って、ありえない速度と角度を展開し乗客を翻弄する。
ブライアン・メイの疾走するギターソロを具現化したらきっとこんな感じだ。
息も突かせぬビートが刻まれ、圧倒的なパワーで法則を操り重力をねじ伏せてゆく。



ちっくしょう、なんてハードロックな乗り物だ。



両手でバーにしっかりしがみついていても大変なのに、片手の自由が利かないものだから、アリスの上半身は滅茶苦茶に揺らされる。
力を入れて握りっぱなしだというのに、火村は離しも締め付けもしない。
自分はこんなに心臓が鳴りっぱなしだというのに。



どんな顔してる?

何を感じてる?

縦横に激しくぶれる視線をなんとか左へ無理矢理向けた。




火村は、頭をぐらつかせながらも真っすぐ前しか見ていなかった。
もどかしさに、揺れに紛らわせて小さく手を引いた。
自然な感じでチラと目が合う。
一瞬火村の目がすがめられ何か問うように唇が動いたが、急に天地がひっくり返ったものだから、聞き返すことなんてできなかった。



真っ逆さまの風景に息をのむ。


ひねりの入った二回転ループに乗客の歓声は最高潮に達した。















結局賭けは敗者無しに終わった。



乗り物酔いを装い、支え合う振りをして手錠を隠しつつゲートから出て来た二組は、がっちり繋がれたままの手錠を見せ合って、開口一番

「手ぇ繋いでただろ」

とお互いを追求した。

そんなひと塊の青年を見た通りすがりの小学生が「あっ! 犯人とケーサツだ!」と指をさすのにようやく理性を取り戻し、そそくさと手錠を外した。
とりあえず『手をつなぐの禁止』とルールに追加され、今回の決定戦はドローになった。



この後、『ムーンソルト…』で勢いづいた青葉と桃井は園内の三大コースターに各5回ずつ乗り、火村とアリスは本格的なゴーカートコースでレースごっこをし「お前の運転する車には乗りたくない」と言い合ってそれぞれに心行くまで遊び倒した。
茜の色が雲を染めて、水瓶の底みたいな闇に空が沈んでも、立ち去り難くなってしまった4人は閉園時間まで駆け回った。








復路は、遊園地ツアーを言い出した青葉が運転した。
焼肉を食べに行った時もビールのかわりに御飯をおかわりして、アルコールの誘惑をはね除けて、なかなかに健気である。
無茶で馬鹿で強引な男なのだが、企画屋根性としてのコダワリがあるようで、意外に面倒見が良いのだ。
大阪市内在住の桃井を大阪駅で下ろし、アリスを天王寺駅まで送り、そのまま北白川まで行くという。


青葉は四条に自宅があるので、ルートとしては悪くない。
車を降りて言葉を交わす。青葉はあれだけ動いたのに、少しも疲れている様子がない。


「今日はおもろかったわ。またフラれたら連絡してな」
「有栖川め遊んでおきながらなんてことを。今度の飲みで酷い目にあわせてやる」

運転席の窓を全開にして、顔を出した青葉はニヤニヤしている。
アリスはちらと後部座席の火村を見て、「火村連れて行くから勘弁」とおどけてみた。

「よし許す」
「合コンならお断りだぜ」
「火村がいながら男ばかりの飲み会なんて、やる意味があるのか? その顔はなんで付いていると思ってるんだ。俺と同じく女性を楽しませるためだろう?」

青葉が聞き捨てならぬとばかりに後ろを振り返った。それも哲学問答のような口調でだ。これは絶対ふざけている。

「どのツラ下げて言うか。ヒトの顔をいいように使うなっての」

火村は鬱陶しそうにしているが、無視しきれず皮肉の利いた言葉でパンパン切り返すので、会話そのもののテンポはいい。つい立ち止まってしまう。
このままだと何時までたっても切り上げられそうにない。
車を降りてから寒くて仕方ないのだが……。
夜はうってかわって冷え込みが激しくなり、じんわりとジャケットの生地を通して冷気を感じる。
アリスの盛大なくしゃみを聞きとがめた火村が「もうこいつの事は無視して帰れ」と手を振った。
「お疲れ。気を付けてな」と手を挙げて青葉のマーチを見送ったアリスは、酷使しまくった足を投げ出すように前へ進めながら、ふらりふらり帰路についた。




消え入りそうな三日月を見上げたアリスは、ふと『ムーンソルトエクストリーム』乗車中に聴き損ねた言葉を、火村に確認しなかったことを思いだした。
だが聞いた所で、おそらく「風が痛い」とかいう他愛もない刹那的な感想だろう。
明日食堂で話題に上ったら確認してみればいい。
寝たら忘れるという可能性は大有りだが。














翌日は天気こそ良かったが、昨日と打って変わって底冷えのする朝を迎えた。
今年最後の木曜三限の講義に顔を出し、ラウンジに向かうべくひんやりする渡り廊下を歩いていたら火村に声をかけられた。

「昨日はお疲れさん。最後までやってたゴーカートのシート固かったやんか? 
あれのせいで俺背中とか脇腹とか痣だらけになってん。君はどや」
「痣にはなってないが、少し痛い箇所はある。まぁ大した事ない。それよりお前、風邪引かなかったか?」
「なんで」
「なんでって……」

アリスは起き抜けから鼻の通りはよく、喉の調子も抜群だった。だから何故そんな事を聞かれるのか本気で疑問だった。
少し間を置いてようやく思いだす。

「あ、まさか別れ際くしゃみしたのを気にしてくれてたんか?」
「変か? 寒そうに縮こまってただろう。最近、良くない菌が流行ってるからな」
「全然、健康体。調子ええし」

それよりゴーカートで痛めつけた背中の方が辛い。
あれは小型ながら馬力がある。
本気で最高速を出していったらそれなりにGがかかるので、走行中どうしても上半身を固定しきれなくなる。
ドライビングポジションを保つため無理矢理シートに張り付こうとした結果、背中じゅうに痣ができてしまったのだ。

「君こそちょっと顔が疲れてるけど」
「単に腹が減ってんだよ。昨日は青葉のやつが……ちっ、来やがった」

露骨な視線を送った先を見れば、青葉が正面の階段を下りて来るのが見えた。

「やっほー。おはよう英生」
「うるさいぞアホ葉。昨日はよくも人を連れ去りやがって」
「だってあんな夜に一人はさみしいじゃないか」
「その図体でだってって言うな。アドレスに登録済みの女のところに行きゃ良いだろ」
「男同士じゃなきゃ慰め合えないこともある」
「お前は自分勝手に喋っていただけだ」

アリスが口を差し挟める余地が全くない。
まるで嵐が来たようでひたすら圧倒されていた。青葉と火村が、昨夜の別れ際のような調子でボケとツッコミの応酬をしている。
だが会話の内容はまるで予測しなかったことだ。

「おい、何の話かさっぱりわからへんけど。火村は昨日下宿に帰ってへんのか?」
「ああ。こいつは無駄に金持ちらしくてな。四条じゃなく、京田辺の別宅に連れて行かれて、飲み会と称した愚痴に付き合わされたんだ。
真夜中だし、歩いて帰ることもできねぇし。おかげで寝不足だ」

この借りはでかいぞと唸る火村の眼光もモノともせず、青葉はへらりと笑っている。

「楽しい夜だったっしょ? 顎付き足付きのVIP待遇なのに、そこまで言われると哀しいな。
有栖川もぜひ今度おいでよ。ジャグジーつけたんだよん」

アリスの脳裏に、ジャグジーで手足を伸ばす火村の姿がなぜか浮かんだ。その絵の中で青葉は気障ったらしくシャンパンを差し出している。VIP待遇と言う響きのせいか、妙な想像がふくらんでいけない。

「アリス、無理に行く事はない。いや、やっぱ行くな。きっぱり断れ」
「おい、横ヤリいれんなよ」

青葉が馴れ馴れしく火村の肩に手を置く。当然すぐに払われたが、それすらコミカルで緊迫さは全くない。
並んでいると相性が良いとはとても思えない2人だが、どこか親密さすら感じられる。彼らを知る人間が見たら誰もがそう思うだろう。
アリスは昨夜二人で何をして過ごし、どんな話をしたのか聞きたかったが、聞くと苦痛になるのではと思った。



なぜかわからないが、チリッと心の底が焦げる匂いがする。



心臓の裏が炙られたみたいに痛い。



なんだ、これはどういう心の動きなんだ。
なんで自分はそんな気持ちを持ってしまうんだ。
見知らぬ気持ちが突然顔を出してアリスを困らせる。



食堂に行こうと双方から誘われたが「ちょっと胃が痛いから」と言ってラウンジを後にした。

外に出ると、朝よりも日光が薄くて空がグレイがかっている。
空気がうすら寒く、ダウンジャケットを着ていても日陰は凍えそうに冷たい。
アリスはかじかむ手をポケットに突っ込んで足早に馴染みの喫茶へ向かった。





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