3.
今年の法学部の講義はなぜか軒並み一週間ほど繰り上がって終了した。
教壇に立つ者がことごとくいなくなったのだ。
出張や、学会や、流行の風邪で倒れたためである。年内にすべきカリキュラムは殆ど消化されていたし、レポート提出という形に化けたコマもある。
だから、年明けまでひょっとしたら火村と会う事はないのかもな、と思った。
そういうつもりでいた。
*
今日は大学の図書館から予約していた本が返って来たという電話に起こされた。
マイペースに投稿用の新作を書いているせいで、すっかり昼夜逆転の生活をしていたアリスは、昼前に電話がなければ午後まで惰眠を貪るつもりだった。
明らかに寝起きの声で答えたアリスに、司書はなんて怠惰な生活を送る学生だろうと呆れたに違いない。
それはそれ。休日をいかように過ごすかは個人の自由だ。
急ぐ事もないので悠々とシャワーを浴び、その日最初の食事をファーストフードで済ませたアリスは、午後3時過ぎに四条河原町行きの電車に乗り込んだ。
本1冊のために隣県まで来るなんてアホやなと思うが、そういう無駄を好むのが若い証拠なのだ。
貸出の手続きを済ませたアリスは、ゲートのバーを押し下げ自動ドアの外へと軽やかに歩いた。望みの本を手に入れた日は、いつだって心おどるものだ。
日没へ向かう空はどんよりと灰色がかっていた。
図書館の外階段を下りた所で、ザックザックとコートとショルダーバッグが擦過する派手な音に気付く。
後ろを振り返ると、桃井が「おおい」と手を挙げていた。
あの擦過音はバッグが重いせいか、はたまたその体躯がもたつくせいなのか定かではない。愛嬌のある風体にふと頬が緩む。
アリスに続き階段から駆け下りてくる彼に、アリスは軽く手を上げた。
「久しぶりやな。10日前に全部講義終わってもうたからなぁ。桃井はまだ残ってたんか」
「うん。それも今日で終わったけどね。つか有栖川と連絡がとれないって、青葉がわぁわぁ言ってたよ。忘年会やるとしたら、いつなら来れるの?」
その名前を持ち出されて、アイタと後頭部を叩いた。先日、青葉がアリスの不在時に家に電話をかけていた事は知っていたが、小説を書くのにかまけて返事を忘れていた……ということにしている。
青葉が怖くなったせいだ。
遊園地に行ったあの日の夜、青葉は火村を誰も知らなかったテリトリに招き、翌日にはいきなり英生呼ばわりしていた。
あの男のキャラクタを考えれば、ありえる展開だ。
もし火村とアリスの立場が逆転していても、同じようにアリスを別邸に連れて行ったに違いない。
彼女に振られ、遊園地で憂さを晴らしたけれどなにか物足らない。語り足らない、言葉が聞きたい、誰かの考えに触れたい。そういう衝動にかられて「飲みに行こう」という展開なるのはよくあることだ。
ただ青葉があんまりにも火村に近寄るから---アリスは青葉から遠ざかる事で、なぜ怖くなったのか考えてみた。
当てはまる感情として、自分は彼らに嫉妬したという答えが導き出された。
怖かったのは嫉妬を知られる事だ。つまり無意識のうちに自分で自分を恐れていたというわけで。
この歳になって、しかも同性の友人をとられて妬くなんて、と思うけれど否定は出来ない。
認めてしまえば話は簡単だ。
アリスは誰に嫉妬し誰を独占したかったのか、自分の気持ちも受け入れた。
心の何所かで火村のことを「自分だけの」友達と決めて、パーテーションで囲っていたのだ。
その中から連れ出せるのは自分だけで、入れるのもまた自分だけだと。
火村が社会生活から独立した存在として生きているわけではない以上、そんな囲いはありえない。
そんな風に独占したい気持ちを認めながら、自己批判をした。
けど青葉に電話をかける気にはなんとなくなれず、少しずるい自分は桃井に伝言を頼むのだ。
「忘年会いつでもええよって伝えてくれ。クリスマスを一緒に過ごす彼女もおらんし」
「ああー俺もそうさぁ」
彼女に振られた桃井は、どこかおどけた調子で肩を落とすジェスチャーをした。
「おっと、思いださせてすまん。日程は一番忙しいやつに合わしたってや」
「ならバイト三昧の日野か火村か。奴らに合わすのは至難だよねぇ」
「火村は今年もケーキ販売のバイトで忙しいらしいからな、多分23から25はベタでだめやな」
「あ、そうだったんだ。今年はなんか、違うみたいだけど」
火村に教えてもらった情報すら目の前であっさり覆される。
「そっか」
そう、こういう事なのだ。
彼に関して自分だけの情報とかテリトリとかスペースなどはなく、その時々持ち寄られた知識や情報で世界は構築される。
そうやって全てはうまく回っている。
桃井と校門前で別れた後、沈んでしまった頭を叱咤して、最近ご無沙汰だった古本屋に靴先を向けた。
古本屋へ続く道の途中に、1回生の火村がクリスマス時期だけバイトしていたケーキショップがある。頑固職人のオジさんと気の良い奥さんと、二人の若い雇われパティシエが切り盛りする店だった。
白と黒を基調としたシンプルでこじんまりとした店構えだが顧客は多く、23日から3日間外に机を置きケーキを並べて売りさばいていたという。
明日から始まるその光景を今年は見られないのか。
『あんまり冷えるからブーツの底にカイロを詰めて、さらに腰にも腹にも巻いてたんだぜ。ひでえよな』
秋頃そんな話をしていたっけ。
それほどに厳しい寒空の下でサンタの扮装をする火村をからかってやりたかったのに。
この角を右に曲がると店のフラッグが見えるはずだ。アリスはきょろきょろと目を走らせた。
しかし、営業日のはずなのにフラッグは降りていた。その上午後5時を回ったのに照明さえ付いていないのはどう見てもおかしい。
不思議に思ったアリスは自動ドアの入り口に近づくと、『店主の都合により無期で営業をお休みいたします』と打たれたワープロ用紙が貼られていた。
なるほど。何らかの理由で店主が店を閉めているから、火村のバイトも流れたわけかとアリスが納得したところで、結構な力で肩を抱かれた。
「ぅひゃあ」
「なんつう素っ頓狂な声出してんだよ」
「って火村か! 急に変質者みたいなことすんのは止めてくれ」
変質者呼ばわりされた友人は、ムスッとした顔で拘束を解いてアリスの横に並んだ。いつものアーミーコートに、今日はマフラーを巻いていた。鍛えていても寒さには勝てないらしい。
「この店は当分開かないぜ。おやっさんが骨折して入院中だ。クリスマスには間に合わないらしい」
「君はサンタの職を失ったってな。桃井から聞いた」
「そ、正しく連休になっちまった……。アリス、暇ならウチに寄れよ。忘れ物預かってるぜ」
実に2週間ぶりのお誘いだ、とすぐさま会えなかった日を数え上げられる自分がいまいましい。
「そんな心当たりないんやけどーーー」
ぐずぐずしていたら、「いいから来いよ」と火村に有無を言わせぬ迫力で引っ張って行かれた。
下宿の玄関先の有様にアリスは目を見張った。
土間に並びきらないほどスニーカーやブーツが溢れていたのだ。こんな光景見た事ない。
まるで足の踏み場がなく上がりかまちがやけに遠い感じられる。踵を摺り合わせて脱ごうとしたが、脱いだとしてもどこに靴を置くべきか逡巡していると、火村はため息をつき片方脱いだ靴を手に、一足飛びで靴の海を跨いで上がり込んだ。上がりかまちでもう片方を脱いでいる。足が長いのを自慢するなよ…。
アリスは早々に諦め、脱いだコンバースを手に他人の靴を踏みながら上がり込む。
「なんやこりゃ。開国の志士が集会でも開いてんのか」
「誰かが鍋パーティするとか言ってたな。今日だったのかよ」
靴は持って上がれよ、と火村がひとつ屋根の下に住む隣人に盛大な舌打ちをする。
「火村も誘われたん?」
「いいや。付き合いがないからそれはない」
階段をあがるごとに、訳の分からない単語や歓声がクレッシェンドで迫ってきた。
廊下に立つとアウトだ。もし原稿中にこれほど騒がしくされたら、喧しいと怒鳴りつけたくなっただろう。
彼らと火村の付き合いがないなら、火村にとってこの喧噪はただの迷惑行為に違いない。
それも火村の部屋に入るとマシになった。もぬけの殻になっている隣室が、ある程度音を緩衝してくれているようだ。
相変わらず本だらけの部屋である。服と本と雑貨はそれなりに分類されているが、整頓が追いつかないらしい。
カーテンレールに掛けられた洗いたてのシャツは、忙しく動く彼の日常を想起させる。
それでも炬燵の周辺は片付いており、勝手にスイッチを入れて温もっているとコーヒーが供された。気遣いは嬉しいが、ぬるいのは困りものだ。
向かいに座ってコーヒーを啜る火村は、ダーティヒーローめいた渋さがあるが、実は猫舌だった。笑わせやがる。
「ここに来るのも久しぶりやな。もう今年の講義終わったか?」
「昨日終わった。お前こそどうしてたんだよ、ぱったり来なくなってたな」
「あ? ああ、先生の都合で軒並み休講になってな、一足早く冬休みを満喫しとった」
そう言うと、火村は脱力したように右肩を落としジロッと上目遣いで睨んできた。
「なんだ。なら一言連絡くらいくれよ。胃を、悪くしてたのかと思ったぜ」
「い? 胃って、なんでやねん」
「お前ふざけてるだろ。最後に会った時言ってたじゃねぇか、『胃が痛いから』って」
言われて、しばらくしてから思いだせた。方便だったので、ころっと忘れていたのだ。
嘘とも言えず「ガスター10で直る程度のもんやった」とお茶を濁すと、「ならいいけど」と口を尖らせている。悪い方がよかったのか。
借りた本を読みたいし、火村の機嫌が読めないので、とりあえず済ますべき用件をさくさく進めてみる。
「なぁっ、俺の忘れ物ってなんや? ほんま覚えがないんやけど」
「ああ、覚えてないだろうな」
「えらい持って回った言い方やん。まさか忘れ物ってモノやのうて、酔っぱらって君から金とか借りた?」
「どうしてそういう発想に至るんだ……。わざとか?」
右の手で頬杖付いている火村に、じっと目を見つめられる。まるで試されているようで居心地が悪い。
なんなんだと戸惑いながら、目を逸らすのも癪で、真っ向から彼の視線を受けとめるべく目に力を入れた。
「たとえ話や。ええ加減くどいぞ」
「アリス、今何時だ?」
「は?」
「壁の時計は今朝から止まってる。アリスの時計は何時だ?」
パッと壁の掛け時計を見ると、短針が9のところで止まっていた。アリスの腕時計は6時23分を示している。最近購入した某カシオ製のゴツさがカッコいいデジタル式のものだ。自慢するつもりは無いが、表示を見せるべく火村の前に差し出した。
「新しいな」
「よう分かったな。先週手に入れたんや」
最後のクリスマスプレゼントだからね、と、釘を刺されつつ母親から受け取った。二十歳を過ぎた息子のもとに、もうサンタさんはやってきません、だそうだ。
なんにせよ、先月時計を無くしたので助かっている。
たぶんあの店に置いてきたのだがそれも定かではない。あの時自分は----
「---青葉に、渡したままでいいのか。あのシルバーの時計」
「うそん。あれ青葉が持ってんの?」
青葉が彼女に振られる前のこと。ほか数名とで賭け麻雀をしていたのだ。
四条にある青葉のアパートでじゃらじゃら牌をかき回し、酒を飲んで騒いでいた。(週末にこんな事をしているから彼女に振られるのだ。)
加減を知らない4人はベロベロに酔っぱらって、それでも卓にしがみついて打っていた。
夜中に急にラーメンが食べたくなったので、深夜営業の店になだれ込んだが、そのあと腹がくちくなったせいか麻雀する気が失せて雑魚寝をしたっけ。
これはアリスの覚えている顛末ではない。
途中で記憶が飛んでしまったので、後から聞いた話なのだ。
件のシルバーの時計は青葉の家を出る時にしていたが、帰る時には無くなっていた気がするので、半信半疑ラーメン屋に問い合わせたがやはり出てこなかった。
すっかり諦めていたので、今の今まで忘れていた。
「渡したつもりはないんやけど、おかしいなぁ。まあ俺、酔っぱらってたし。なくしたんやと思うてた」
ひょっとしたら賭けの形に渡してしまったのかもしれない。なにせアリスも、青葉の持ち物であるジッポのライターがポケットに入っていたくらいなのだ。
その時の話をしようとしたが、そんなことおかまいなしの火村にいきなり肩を掴まれた。
「おいアリス」
「なんやねん。痛いやろ」
本当にちょっと強すぎる力だったので、すぐさま払いのける。訴えるように睨むと、顔色を無くした美貌が地を這うような声で呻いた。
「----同意じゃなかったのか?」
「そら同意に決まってるやんか」
「じゃあなんで渡した事を覚えてねぇんだよ!」
「酔っぱらってした事いちいち覚えとるかいな!」
「な……な……」
火村が絶句した。あまりに珍しいことにアリスは面食らった。
一瞬の沈黙が落ちる。
そこへ、廊下にひときわ大きく笑い声が響いた。あっちは宴会で楽しそうなのに、こっちはなぜだか口論へと突入している。
その落差に情けなくなる。
「あのな……酔っぱらってたら、って。お前は、理性を無くした状態で、あんな約束をできるのか」
流石と言うべきか、すぐさま立ち直った火村がカリカリと頭をかいて吐き捨てるように言った。
「まだ酔ってない時に話はついとるもん。なぁ、なんでそないなことでカッカしてんの。火村はああいうの嫌いなん?」
「はッ----嫌いとかそういう問題じゃないだろ」
「じゃどういう問題や。モラルの問題とかいうなよ?」
麻雀のルール説明は不要なメンツだったし、点数の付け方も賭ける金額もその上限も取り決め済みだった。
実に後腐れの無い、割り切った遊びである。
ただ、賭け事を毛嫌いしている人種もいる。火村もそういう類いの男なのだろうか。
もしそうだったらアリスのスタンスを主張した所で平行線のままだ。時計の話に戻した方がいい。
言い募ろうとすると、火村が顔の前で手を振った。
アリスはコミュニケーションする事を断たれてしまった。
ぐらっと腹の底が沸いて、机を叩き勢い良く立ち上がる。
「これ以上話してたら頭が痛くなりそうだ。今日は帰れ」
「----言われいでも!」
涙こそ滲んでないが、鼻の奥がちりちりと痛かった。哀しかった。
この10日間、火村に会いたくて、でも会いに行くのが怖かった。
能動的になることを避けていたアリスは、どこかで彼とはち合わせたりしないものかと期待して、わざわざ北白川方面にある古本屋を目指した。
すると偶然というには出来過ぎの再会を果たして、恐れながらも嬉しかった。
それが一体どうしてこんな話になってしまったのか。あまりに哀しいではないか。
「帰るけど、その前に時計渡せや。そのために来たんやからな」
怒りとも不安ともつかない感情に強張った右手を差し出す。
やおら立ち上がった火村は、軽蔑するような能面顔をしてその手を一瞥した。
そのことがさらにアリスの癇に障る。
「そない見んでも、渡してくれたら消えてやるから」
「最後に確認したい」
「なんや」
「青葉との約束は---」
どこまで自分勝手な聞き方をする男だ!
さっき対話を拒絶された事もあり、瞬間的にアリスは切れた。
最後まで聞いてやるもんかと畳み掛けた。
「いやだから君が軽蔑するような阿漕な約束なんてしてへん! 1点100円の安い麻雀やねん。そら金品のやり取りはあったけど、どれもバイト代で買うた安もんや。お前からしたら驕った遊びと思うかもしれへんけどな。金満日本の自堕落なガキの」
「マージャン……?」
「はん。法医学の知識はあっても麻雀を知らへんのか」
眉根を寄せて聞き返す間抜け顔の秀才に、精々いやみったらしく聞こえるように言ってやった。
だが火村は頭がおかしくなったように、狭い一畳の中で右往左往し頭を掻きむしって、あろう事か笑いはじめた。
「あ、い、つ、め----くそったれ!」
「おい? だ、大丈夫か? おい火村ったら。お前怖いで」
「見事に回されたよ、俺とあろうものが。お前があんな風にシラを切った時点で怪しかったんだ。まったくお笑いだな、ふざけてやがる」
ようやく落ち着きを取り戻した火村は、笑い過ぎで喉が痛いと水を飲みに台所へ引っ込んでしまった。
出した右手の行き場をなくしたアリスは困ってしまう。
「火村、勝手に納得すんな。俺は全然すっきりせぇへんぞ。全部話せ」
こっち来い、と火村を6畳間に連れ戻す。帰るつもりが炬燵に逆戻りだ。
「聞いてもすっきりしないと思うが」
「あれだけくどくど尋問しといて『勘違いでした』じゃ世の中済まんで!」
「そう目くじら立てるな。怒るならアホ葉に怒れよ? あいつはな、お前が寝る時に腕時計を外したと言った。寝るって、そういう意味でだぜ? 同意の上で関係をもったと」
一気! 一気!
と野太いコールが空き部屋越しに響き、呆然とするアリスの耳の中でこだました。
今聞いた事は、確実にアルコールよりも悪酔いする内容だ。今すぐ引きつけを起こしてもいいだろうか。
「アホな……。そういうんに偏見はないけど、いやや、無理、俺青葉とは無理っ」
「違うんだな?」
「ぅあったりまえじゃ! おのれは俺の何を見とるか。大体青葉はその時彼女おったやんか」
「お前との事があったから別れたともとれるし、よしんば女がいたとしても、アリスと青葉の間で同意があれば成立する。体だけというのもまた1つの嗜好だ」
なめらかに言い挙げられ、今度はアリスが頭を掻きむしった。
その回りすぎる頭脳が呪わしい。
「考え過ぎや。ほんま無駄に回り過ぎ。行き過ぎ。とっとと戻ってこい、俺と青葉がただの友人であるという認識に」
しかしアリスも、実は英都屈指の秀才に負けず劣らずの頭の持ち主で。
ある時を境に急に発想する回路がジャンプしており、気付けば物事の核心へとパラシュート降下してしまったりする。
問いつめようとしたときの、肩を掴む手の強さ。
同意じゃなかったのかというときの、あの表情。
返せと手を差し出したときの目は、軽蔑ではなく、たぶん---嫉妬。
「きみ……俺のこと好きなん?」
うっかり、相手の告白を待たずに正鵠を射止めてしまうのだ。
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