2.









桜色に霞んでいたはずの並木道に青い影が落ち、2回生からやり直し、という現実が一歩足を踏み出すごとに重くのしかかってくる。
暦が指し示す現実では、2年10か月、時を遡っていた。

精神だけ彷徨って20の体に取り付いたわけではないらしい。切りたての髪型が、22歳であることを証明している。
父母がそれに気付かなかったのは、寝癖がひどかったからか息子のヘアスタイルなどに興味が薄いからか。

ともかく、アリスは新人賞の最後の扉の前まで進んだ探偵・江神二郎とトリックを引っさげて、この世界に来たのである。
あの、卒業前に願っていたことを叶えるための条件が、そろい踏みではないか。
残念ながら苦労して単位を取った講義の内容は、2度目なのに半分しか頭に残っていなかったが、推理小説のアイデアならノートの罫線の色まで覚えている。
ならばもうやるしかない。
帰る方法が見つかるまで、この世界で生きるしかないのだから。そして、アリスの世界の中心は、原稿用紙の上にある。

しかし、なぜ22歳のアリスがここにいることが可能なのか、全く分からない。
20歳の自分はどこに存在するのだろうか。過去の自分と鉢合わせしたらどうするんだ。
そこまで考え、この概念そのものが作り話でしかないことに思い至る。誰も証明したことがないのだ。

現場を見てみようと地図を辿ったが、何度指でなぞってもアリスが落ちた地点がどこなのか、スッポリ記憶から抜け落ちていた。
大通りと繁華街の間、どこにでもあるような通りを歩いていた気がする。おぼろげなネオンサインと、公衆トイレに駆け込む同級生の後ろ姿。
歩きなれた飲み屋街の風景を、地図の上に思い起こしたが、指が八の字を書くばかりである。




こうなれば、人を見るしかない。とりあえず昨日出会う予定だった親友の姿を探してみる。
大教室に足を踏み入れ、ざっと辺りを見回した。この世界でも選択した講座がふたりまるで同じだとすれば、ここでも会えるはずなのだ。
前から3列目の通路側に、見なれた後ろ頭を見つける。

火村とこの時点では、赤の他人なのか思うと妙な心地がする。
タイムスリップもので、過去への介入がご法度なのは基本のキだ。
バタフライ効果で次々とズレが生じ、主人公の知る歴史とは違う方向へ世界が転がってゆく、というのがよく語られる定説。
それを念頭に置いて動くつもりは、アリスに毛頭ない。

なぜなら、アリスが元いた世界さえ、誰かにとっての『過去』もしくは『平行世界』である可能性がゼロではなくなってしまった。
つまり、ここに来てしまったアリスと同じく、時間を飛び越えてしまった人間が他にもいる気がしてならないのだ。
アリスがこうして『過去』を生きていること。その事実が、この説に解を与えている。式がないので、誰にも証明できないが。
ペプシを買わずにコカコーラを買ったがために、ある大手銀行が潰れたらどうしようとか想像して、今日を生きていけるか。ノーだ。
なら今まで通りでいいのだ。

それでも火村の斜め後ろに席を陣取ってしまう自分がいる。
ただ近くの席に座っているだけで友人になれるはずもなく、講義終了後火村はさっさと席を立って行ってしまった。

アリスは声をかけられなかった。

手ぶらで行っては失敗する気がした。
脇目もふらず小説を書き散らしていた自分。
それを奪うように読んだ火村。
気を引きたくて書いていたわけではないが、向き合って個人的な話をするよりも余程多くを語らっていた。
だからこの条件なしに、人嫌いのお互いが引き合っただろうか疑問だった。こちらはともかく、火村がだ。

安易に行っては駄目かもしれないと、思うと同時に、たとえバブルが予定より早く弾けても火村とは友人になっておかねばならない気がしてきた。
焦るな自分。
胸に手を当てて深呼吸した。チャンスはまだある、はず。

次の語学の授業では天農に声をかけられた。
こちらの世界でも友人であるらしい、とアドレス帳で確認したので知っていたが、思わず涙ぐみそうになった。
想像以上に自分は気が張っていたらしい。

よくつるんだクラスメイト達も、お互いまだ少し遠慮がちな時期だ。
個人的な情報をどこまで得ているのか。どんな符号が仲間の間で流行っていたのか。探りながら会話を進めていくしかない。
アリスだけが、時の迷い人としてここに存在している。
その認識のズレが無情な壁として立ちはだかるのは、やはり人と人の間に交わってゆく時であった。




3日もする頃にはズレを隠すのが苦痛に思えてきて、全く別のグループと「名前なんていうの?」からはじめることにした。いっそ白紙の方が気が楽だ。
その中には青葉もいた。
アリスのほうは人柄を既に知っていて話をしているのでツボを心得ている。
だから当然の如く急接近する。

「有栖川って泰然としてるよな。顔のせいかと思ったけどさ、なんか違う。インドで会った位の高い坊さんみたいな目を時々するんだよな。茫洋、じゃなくて、透徹? つうか」
「呑気なツラやって、凝った言葉を探してまで言うなや」
「ほめとんじゃ、素直に受け取れよ。おまえの周りだけ、時間の流れが全然違う。なーんか不思議なオーラ出てるわ」

机に顔を預けてアリスを覗き込む黒い目が、なんでだろなあ、と問いかける。
問いかけられた方は、曖昧に、しかし隠しきれない慈悲心を滲ませ笑うしかない。
おれ実は未来からやってきた有栖川有栖で、君が留年してしまうんを知っとるんや、なんていえようか。










梅雨前線の到来を告げる頃になっても、火村とはコンタクトがとれない。
同じ講義に出て、階段教室の最後列で同じように原稿用紙を広げていたが、火村はアリスのことなど目にも入らない様子で、さっさと前の方の席に座ってしまう。

火村の言葉を思い出す。
高い学費を払ってまで通っている大学で、講義を聞かないやつの気が知れないと。
かような意識を持ち、耳を澄ませて講義を聞くのが常態である彼が、あの日こんな最後列に来たこと自体イレギュラーだったのかもしれない。
このまま待っていても、未来にはつながらないだろう。
そんな考えが頭にこびり付いて離れず、大事な演習だというのに、どうやってファーストコンタクトをとるべきか、ということばかりを考えていた。





次の週、意気込んで足を踏み入れた中くらいの教室は、ムッとした熱気が籠っていた。
学生がひしめき合っている人気の講義だというわけではない。湿気がすごいだけだ。
ベタベタと二の腕が原稿用紙に張り付くのが、なんとも不快だった。
開始時間まで書いていようと、乱歩賞で惜敗した作品の再構築に努めていた時、入り口に火村の姿が見えた。

湿気も暑さも、増した気がする。
ドクドクと鼓動が高鳴る。

アリスはここにくる前、ノートを借りたい、というありきたりな理由を十数回胸の中で復誦してきた。
われながらつくづく捻りがないけれど、いいのだ、話しかけることが大事だ。
来たからといって、すぐに飛んでいってはいけない。
席についてから、できるだけ自然に。

すぅ、と気持ちを落ち着かせるために深く息を吸う。
そして吐き出すつもりが息が止まった。
鉄面皮だった火村が、教室内のある一点に目を留めて穏やかに笑ったのだ。
それはアリスにではなく、

「よお」

通路を挟んだ隣の机で手招きしている男に向かってだった。
彼の名前は知っていた。
3回生の時、アリスと同じ講座のゼミ生になった野々宮千秋だ。

「なぁテキスト持ってる? おれ忘れてきたから、一緒に見させて。おねがい!」
「こんな教壇のド正面で、忘れてきましたってことアピールしてどうすんだ。せめて窓際に移ろうぜ」
「サンキュ、火村」

ふたりはアリスから遠ざかるように席を移った。
窓辺に火村、通路側に野々宮が座ったので話しかけにくい構図になってしまう。

やりにくい。

ウジウジと迷っているうちに教員が入ってきて、出席カードを回しはじめたから、用意してきた台詞は別の機会に使わざるおえなくなってしまった。
火村は確か、ずっとずっと単独行動していたはずだ。
先週だって、ふたりはバラバラに座っていた気がする。

いつの間に、無表情がデフォルトの男の笑顔を引き出すような仲になったのだろう。

時刻表を読み間違えてしまったときのような焦燥感が、ずっと講義の間じゅう続いた。
終了のチャイムが鳴る頃には異常な疲労が込み上げてきて、当然のように連れ立って出ていく二人を、重たい溜め息をもって見送ることになる。

あの背中に声をかけて、「ノート貸してもらえんやろか?」って聞くだけではないか。
簡単だ。
でも、できなかった自分がいる。
ここにいる誰よりも火村のことを知っているから。

知り過ぎているから、恐いのだ。
記憶がまだらになってしまった親類と対面する心地というか。

顔は馴染んだ造作をしているのに、きっと自分を映す瞳の色が違う、表情が違うのだ。
こうして成人し、自我が確立されていても瞬間的にダメージを食らってしまう。
近しいもの、情を寄せるものだからこそ、存在を認めてもらえなければ、心の足場はたやすく揺れる。
それが故あることならば、切なさもいや増して。

最後のひとりになってしまってから、ようやく席を立った。

バス停まで歩きながら、おかしいくらい動揺している気持ちを落ち着かせて考えてみた。
認識は22歳のままだから他人の顔をされると辛い、というポイントに重心が移動しているらしい。
だからこういうジレンマがおこる。
友人になるには、まず接触しなければならないのに、それができないなんて。

学生時代をやり直したいと願ったのは自分。
落下の最中、何を犠牲にしても夢を追いかけたいと叫んだのも自分。

この『過去』は、そんな思いに応えるように22歳の意識を持ち込むことをアリスに許した。
自分が迷い込んだのは、アリスの知らない『未来』を歩む『平行世界』なのか?
それとも『過去』も『未来』も『平行世界』も存在しない、自分ひとりの脳内で生まれた妄想なのか?

ほんとの自分は、今頃集中治療室にて生命維持装置なんかに繋がれ生かされていて、今リアルだと感じている世界は、すべて脳内の記憶が構築しているとしたら。

なんて孤独だ。




ジーンズの裾が、雨を跳ね上げじっとり濡れていた。
こんな気持ちの夕暮れには、痛いほどの冷たさだ。

隣に友人がいない。

桜の下で並んだ記憶だけ残して、彼は遠い人になっていた。

それすらも、ここではアリスだけの妄想に過ぎず。

あんなにきれいだったのに、この世界では約束すらされていない未来なのだ。

深くさしかけたビニル傘が歪んだ顔を隠すから、好きなだけ涙を落として、抱えきれなかった分の孤独を逃がしてあげた。













この後も、結局予行練習を試すこともなく、時の過ぎるままに幾度も背中を見送ることになる。
ぐっと腹に力を込めて廊下を力強く進む。
颯爽と昇降口を抜けてK大寄りの門を出たところで、アリスはしゃがみ込む。
誰もこないことを確かめ、ずっと堪えていたため息を吐き出した。

アリスがいたポジションを埋める野々宮に、目をそらしているのもそろそろ限界だ。

火村は、最初の読者になるはずだった。

あまり自分のことを語りたがらないもの同士が、居心地のいい範囲で、少しづつ間合いを詰めていった。
ちょうど今の季節には、下宿の大家さんと一緒に梅酒づくりの手伝いをしていて。
前期試験期間が明けたら、火村を海に誘うのだ。
それなのに、この世界ではどうだ。アリスなどただの他学部生だ。

野々宮はいいやつだ。
優しくて、面倒見が良くて、思いやりのある発言ができる。
もといた世界では、アリスと野々宮は友人関係にあった。
だからこそ、重い。
火村が、もっと嫌なやつとつき合ってくれたら良かったのに。
親しかった相手に、だんだん憎しみを募らせてゆくのはつらいし。
こうした比較が、最も自分自身を苛む。でも、忘れられないからしょうがない。










「っあぁ!」
喉から迸る自分の叫び声で、目が覚めた。
時計の針は真夜中を示している。

夢で『過去』か? 『妄想』か? と彷徨っていた余韻がやけにリアルで、指が小さく震える。
夜半から降り続く雨のせいで蒸し暑く、前髪がじっとり額に張り付いて気持ちが悪い。
もう寝る気に離れず、寝間着から軽装に着替えて階下におりた。両親の部屋が1階でよかった。

心配をかけたくないというより、詮索されたくなかったから。

水を飲み干して、また部屋に戻る。
書きかけの原稿用紙を広げた。物語は佳境に入ったところだ。
1行埋めたら、次々と言葉が生まれて止まらなくなる。
この世界に来る前に書いたシーンとは違う展開になったが、こちらの方が凄みが出てきた。
アリスは夢中になってシャープペンを走らせた。

そして、完成したら綾瀬のもとを訪ねたいとぼんやり思った。
綾瀬とは1回生の時すでに濃い付き合いをしていたので、会話のズレを心配することはない。
なにせ話題は『本格推理』だ。なんて普遍的なテーマだろう。

彼に会えば、この世界で生きてゆくための指針が、自分の中でハッキリするのではないかという思いもあった。
現実から乖離しそうになる時、逆にこの手でねじ伏せたい時。
いつもアリスの傍らには、論理と虚構の世界が寄り添っている。

こうして升目を埋めることで、矛盾に引き裂かれそうな魂の痛みが、すこしマシになる。
不本意ながら所属させられている場所に踏み止まれる。

だから、いつまで経っても折り合いの付かない現実だって、やめないで生きていけるんだ。
自分が願った世界なのに、少しも願いは叶っていない。

ああ、新人賞突破を『目指す』世界だからか。これから叶えてゆくための。
アリスに可能性を1つ与えられるかわりに、火村を奪われていったのかもしれない。

誰に?

アリスを穴へ案内してくれた、何者かにだろう。
三月ウサギが闇の中、桜色の目だけをのこしてすうっと消えていったイメージが浮かんだ。まるでチェシャ猫のにんまり笑いのように。

『狂ってるさ。でなけりゃ、ここまでこられるはずがない』。








アリスの記憶にだけ鮮明に残る火村との3年間が、彼等ふたりの足跡で上書きされてゆく現実。
声もなく消されて、何も届かなくて、彼と繋がらない。




もういい。
考えるな。




いっそ切っちまいな?









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