※御手洗登場。クロスオーバー注意。 3. 夕方過ぎに雨は止んだ。 アリスはK大ミス研にあてがわれた部室に、断りもなく上がりこむ。定められている活動日(一応)である金曜の夕方だというのに、まだ誰の姿もなかった。 古い木造2階建てモルタル造りの長屋の一室は、外よりも湿っぽい。 あいつら、さてはこの空気に倦んで、馴染みの喫茶に行ってしまったな。 綾瀬は、あと10分ほどで終わるであろう講義の後ここに来るはずなので、持ち込んだジャワティの缶を開けて待つことにする。 おお、相変わらず紅茶の味も香りも何もない。しかしアリスは嫌いではない。 色気ゼロの貧相な飲み口が、湿気たっぷりの雨上がり、乾いてるようなそうでないような喉にちょうどいいのだ。 講義もそっちのけで1週間原稿用紙に向かっていたお陰で、応募作は昨日完成した。 とっくに完成していたものを、もう一度紙に書き出しただけだったので、生みの苦しみは1回目より少ない。前とは違う目で見て手を入れて、少しだけ、入賞への期待どころか確信すら抱きながら今から数時間前、郵便局に持ち込んだ。 帰り道は大学前の通りをスキップさえしたハイテンションぶり。 カラオケボックスの看板が目に付いたという理由だけで店に飛び込み、一人カラオケを2時間も堪能してしまった。あれは寝不足ハイだったに違いない。 ハイの後にはダウンが訪れる。 年月を逆行してしまったことで少し狂ってしまった自分の運命を、ひとしきり嘆いた。 主には火村のことだった。 原稿中は意識から閉め出していたので、単純計算でいうと1週間ぶりに彼のことを思い浮かべたことになる。しかし疲労した神経ではその回想も長続きしない。 ソファに寝そべっているうち、うっかり寝落ちしてしまいそうだったので「これはまずい」とK大へ足を運んだというわけである。 部室はもと校舎だけあって、それなりに広い。部屋の中央には会議机が四つくっついて島を成しており、椅子が適当に10脚取り巻く。 隅には背の高いスチールロッカー。窓際に古い長椅子が2脚、東の壁には粗大ゴミの日の度に拾ってきたという書棚が並ぶ。 部誌の在庫置き場であり、持ち込んだ種々雑多な本で埋まっている。 だれだ、N○K「きょうの料理」1年分を置いていったのは。 アリスは室内の仄暗さを都合良しとし、長椅子に寝そべった。カラオケボックスを出てからも眠気はとれず、少しでも目を閉じていたいのだ。 「はふぅ……」 うっとりとため息をつく。 耳を澄ましても、誰の気配もしない。 時折ピシ、と家鳴りするだけだ。ちょっとポルターガイストめいている。 そういえば、ここはお化け屋敷と綽名されていた。 アリスはそういうものを、恐れる質ではない。 好奇心や想像力が本能的恐怖に勝って強い。 いつだって恐いのは、生きてる人間じゃないか。 うとうととし始めたところで、けたたましい金属音と鈍い地鳴りが部室を揺らした。 意識はいっぺんに覚醒して、驚いた心臓と一緒にアリスは飛び上がる。 着地に失敗して床に転げ落ちた。 地震だとすればかなり大きい。老いた建物と心中したくはない。 嘗めた綿埃をペッペッとTシャツの肩口で拭って立ち上がったら、窓辺にヌッと長身の影が現れ、ギャッとみっともなく悲鳴をあげた。 「おっと。今日はこんなところか……。君、驚かせてすまない。僕も好き好んでこんな場所を選んでいるわけじゃないんだよ」 ひらりと窓枠から室内に身を躍らせたのは、ぼさぼさの癖っ毛に、地味な上下を着て白衣を引っ掛けた男だった。 年の頃は助手か、オーバードクターか。 正面からまともに顔を合わせて、彼が服装にそぐわない端正な造形をしていることに気付く。 先ほどの揺れを感じてないのか、まったく冷静だ。 「あんた、地震やで。はよ避難せんとあかんて!」 「地震? ふむ、成る程。ホールを開閉したときの捩れが時空間に一定の反作用をもたらしているんだ。そのエネルギーの解放も収束も計算内だから、この次元への物理的干渉はないけれどね! ああ、つまり大丈夫ってことだよ」 なにが「成る程」で「大丈夫」なのかさっぱり分からないのだが。 横揺れがいつまでたってもこないことから、大地震ではないらしい。 天災の懸念が去ると、今度は謎の男への疑問がわき起こる。 「あんたこの大学の人間か? さっきから何やかんや詫びたり説明してくれるんはええけど、言うとる意味がさっぱりわからん」 「おかしいな。ホールを作った場所より、ここは3マイルも離れている。入る時にズレが生じたのだろうか……特異点の計算は、誤差の範疇だった。つまり」 「ちょっと。人の話聞いとるんか?」 全く無視されている。 英語でぶつぶつと独り言を捲し立てる。あんまり早口なので、ヒアリングにそれほど強くないアリスは、何かの呪文のようにしか聞こえない。 いや、この男の言うことは、日本語でも呪文めいていたが。 「ねぇ君、それをくれないか? 喉が乾いてしょうがないんだ」 ショートブーツの踵を鳴らしてウロウロしていた男が急に苦しげに言うものだから、思わず頷く。 よっぽど水分に飢えていたのか、性急にジャワティをゴクゴクとあおる。 そのくせ全部飲み干しておきながら、くしゃりと苦々しい顔をした彼は「ひどい色水だねこれは!」と叫んだ。 「全部飲んどいて、どういう口の利き方やねん」 「悪いね、紅茶と思っていただいたら渋皮を煮染めたような味だったものだから驚いたんだ。とりあえず渇きは癒えたよ、ありがとう」 「もおええわ。とりあえず用が無いならお引き取り願いたいんやけど?」 「君はここの主かい?」 切り返されて、おもわず馬鹿正直に「ち、ちゃうけど」と答えてしまう。 しかし謎の男は、高圧的な態度になど転じず「ふうん」と言ったきり部屋をうろうろとしている。 そしてアリスに目を止めると、 「なるほど、君か。磁場を狂わせたのは」 手のひらに持っていたらしい鉱石を、ぴたりと頸骨に当ててきた。 「こいつは、この時代の肉体じゃないね。君は一体どこから来た人間なんだい?」 琥珀色の目は、外科医のような乾いた冷静さでアリスを捉えていた。 アリスは言ってる意味を判じかねて、何か返そうと開いたまま口が塞がらない。 「な、なな、ど」 「そうなんだね?」 「……あんた、何者や」 男は、ミタライと名乗った。 奇妙な日本人は、10年先の世界から『ホール』を使って来たとのたまった。 すぐに信じられようか。 しかし、少ししつこい位に2年先の世界情勢を確認しあったら、恐ろしいことにぴたりと辻褄が合う。 一つだけ疑ったのは、来年爆発的に売れた流行歌を上げた時「なんだいそれは」と真顔で言った時だが、彼は日本から出ていたものとアッサリこじつけてしまった。 この簡易テストは時間を要さなかった。 瞬く間に二人の前で証明される。 『時間を飛んできたもの』ということ。 目を剥いて少し高い位置にある顔を見上げたら、「僕の方からしたら、君こそ特例中の特例ケースなんだけどね!」と鼻息も荒く言い放つ。 半信半疑で今日までのことを打ち明けた。 男はさっきと打って変わって、小さく相槌をうちながらアリスの話を要領よく聞いた。 アリスが、その意志に関係のない時間の逆行をしていると知ると、また気難しげな顔をして歩き回り、神経質にチッチッと舌を鳴らす。 そして、自分の方が困ったという顔をしているくせに「困ったときは此処へおいで」とその辺にあった紙とペンで住所を書き付けると、来たときと同じような唐突さで去っていった。 関わっていいものか。 アリスは悩んだ末、そのメモをスケジュールブックに挟み込んだ。 所在地が北白川、となっていることが、握りつぶすことを躊躇わせたのかもしれない。 先ほど出来事と、ミタライ氏について考えていると、立て付けの悪い木戸を手際良く開けて綾瀬が入ってきた。 「電気もつけないで何やってるの?」 呆れた声でスイッチに手をかける。 薄闇に慣れた目に、蛍光灯の明かりが目に滲みた。 「狐に摘まれたみたいな顔して。それとも新作について長考中だったのかな」 「ん。まぁそんなとこや」 「皆と『ダルジャン』行かなかったんだ」 ダルジャンというのは、洒落た名前だがヤニ臭い大衆的な雀荘である。 ちょうどこのころ、アリスも点数計算に血道をあげていた。 「綾瀬の顔見にきたんや。今日、出してきた。250枚超の長編や」 「え、乱歩賞の? やるね。先月はずいぶん苦しんでたみたいなのに。だから有栖川は油断ならない」 「そういうことは入賞してから言うてくれ」 「なんだって完結させることが大事だって。評価の仕事は先生どもに投げとけばいいんだ」 綾瀬の最後の言葉に、顔を見合わせニヤリとした。 挑戦者の矜持を、奥歯で噛んだような笑いだ。 それからいくつかの新刊について語り合い、日が完全に落ちた頃に辞した。 綾瀬の元を訪ねたからといって、なにも自分の中で変化は無く。 既に十分鑑賞したビデオテープを再生するようなものだった。 『生きてゆく指針が見つかるかも』なんて、気の迷いだったなと、空き缶を弄びながら駅への道を歩いた。 それより衝撃的な出会いがあったせいかもしれない。 ジャワティに文句を垂れていたあの男。 屑篭に缶を放り込み、手帳に挟んだメモを広げる。 街灯の乏しい光で、辿る手書きの地図。 『君は一体どこから来た人間なんだい?』 適応することばかりにあくせくしたこの一月弱。 忘れかけていた不安や、焦燥感が、どっと込み上げてきた。 アリスはできるだけ気持ちが先走るのを押さえ、踵を返した。 ミタライの居所は北白川の路地裏にある町家だった。 表札には『山辺』とあり、玄関のガラスが嵌った引き戸は砂埃にまみれて、住人の長い留守を思わせる。 不法侵入を疑ったが、「表札を変えてないだけで、れっきとした僕の持ち物だよ」と主はのたまった。 殺風景な六畳間で向かい合って、なぜこのようなことが起こるのか問うた。 しかし、アリスの期待していた答えは得られなかった。 どうやらある理論が、アリスのケースを説明するに適しているのだが、ずっと先に発表されるものであるから今名前を明かすことはできないという。 例えて、「ロトくじの当たり番号を教えるようなものだよ、君」だと。 ただ彼が通ってきた道のことを、少し明かせてもらった。 特異点、と呼ばれる時空の抜け穴(のようなものと言っていた)があるのだと、ミタライは言った。 ブラックホール研究をしているらしく、某国の地中深くに作られた発生装置を使って、人為的にビッグバンを生み出す実験を繰り返しているという。 その派生物として生じたブラックホールを使っているのだという。 だからって、無茶をする先生だ。自分を飛ばしてみるなど。 今日、窓辺に出るつもりはなかったらしい。 設定した地点の付近にアリスという異質な存在があって、計算を狂わせたらしいが、どこまで聞いても嘘くさい。 だいたい彼の説明では、飲み歩いていたはずの体が、なぜベッドで清潔な身なりをして横たわっていたのか、二十歳の体はどこへ行ったのか説明がつかないではないかと抗議したら、「来たことに大した意味はないのさ。帰ることが重要だからね」とひょいと右の眉を上げた。 「帰れるんか?! 簡単に言うてくれるなよ」 「帰れるよ。だが、少し日を待たねばならない。経験からすると、今度は多分2日後になる」 「……おおきに。邪魔したな」 「おや、その顔。疑り深いのは結構。僕からすれば君の方がよっぽど奇妙な、理論を外れた、超常現象的な存在なんだけれど」 狸に化かされたような思いを抱えながら、ミタライの家を後にした。 * 「やれやれ、彼はちゃんと『帰還』してくれるかな?」 ぎしぎし鳴る階段を上りながら、ミタライはひとりごちた。 上がりきって、すぐの部屋。 襖をからりと開けると、古い町家に相応しからぬ空間が広がる。 鏡面仕上げのパネルが天地左右に貼り巡らされ、部屋の中央には銀色のカプセル、傍らにはごくミニマムなコンソールパネル。 痛いほどに清潔で明るい部屋の中、片隅に置かれたシャーベット・オレンジのシャツとドラムバッグは、子供が描いた花の様に無邪気な色彩を放っていた。 真円の球体をしたカプセルは、上半分が透明で、胎児のように丸まってフロートしている青年の裸体を余さず見せていて。 ミタライが触れると、ポウ、と白く発光するのだ。 まるで生きているように。 「あと2日だ。巻き込んでごめんよ、…君。必ず帰してあげる、こっちの世界にね」 ドラムバッグに下がる、ネームプレートには『A.A』のイニシャルが刻まれていた。 * アリスは、テキストを1ページ読んでは伏せ、シャープペンシルを持っては弄んだ。昼前の図書室、人はまばらだった。 集中力を全く無くしてしまっているのは、昨夜から降りやまぬ雨のせいではない。 今日が、ミタライ言うところのXーDAYだった。 行くか、行かぬか。 考え出したら午後提出の宿題さえ、全く手につかない。 『タイムマシン』の主人公は、自分で作り上げたマシンで現代へ帰っていった。 しかし自分は、よく分からない男の手に運命を委ねようとしている。 特異点だの、ブラックホールだの発言に、眉根が寄る。 それらが、地上に存在しうるという前提で考えても、な。 光さえ出てゆくことのできないシュヴァルツシルト半径に踏み込むなど、正気の沙汰ではない。 スケジュールブックを開く。 日付けをまた数え、息子を突然失うことになる両親のことを思い浮かべ、しわくちゃのシャツを着た背中を思い出した。 昨日、久しぶりに火村を見た。 少し前髪が伸びていて、黒々とした目は見えなかったが、鼻梁のラインを損なうほどではない。 一瞬目に入った横顔を、振り切るように階段を下りていった。 もうどうすればいいのか、わからない。 火村という『友人』を失って初めて、胃の底が灼けつくような感情を自覚するなど。 いろいろひっくるめて、こんな気持ちのままでは、ミタライが指差すドアを、引くことも押すことも出来ない。 京都にいては駄目だと思い、午後の講義をサボって帰ることにした。 火村が熱心に受けているコマだから、行けば必ず姿を見られるけれど、今はそんな気分ではない。 昇降口で傘を広げようとしたところ、背後から腕を掴まれた。 「待てよ」 耳に、あまりにも馴染んだ声。 人より少し低くて、通りが良くて。 信じられない思いで振り返ると、夜が指で触れたように暗く底知れぬ色の目とかち合った。 22歳の世界でも見たことのないような、眦の強さ。 「なんや、火村」 思わず名を呼んで、火村の名を知っている理由を慌てて見繕っているうちに、ぐいぐいと校舎内に連れ戻されて行く。 そしてサークルの大きな看板が乱立する階段下の影へ、巧妙に人を押し込むのだ。 壁ぎわに追い込まれ、だん、と顔の横に手をつかれ。 そこで怒りの気配を、ようやく嗅ぎとる。 「どういうつもりや。君」 ここに至るまで、全く接点がないのにいきなりこのような展開とは、これどういう了見。 「それはこっちの台詞だ。お前、見せつけてんのか? わざわざ下宿前をウロチョロしやがって。悪趣味にもほどがある」 「はぁ? 何の話や。俺、君に何ぞ迷惑かけた覚えはないで」 「そういう無自覚さってどうよ。いやむしろ陰湿」 「待ってや、全然話が見えへんて。あのーそもそも……」 君と俺は知り合いなんか。ちゃうやろ? と続けたかったが、「白衣の男に覚えがねぇとは言わせない」と唸り、まるで聞く耳を持たない。 「白衣……あ。ああ、昨日の、あれ。それがどないしたんや、君に何の関係がある」 懸命に、無秩序な情報を端的にしてみた。 北白川をミタライとアリスは歩いていた。それを火村が見た。 たったそれだけのことでアリスにクレームをつけているのだが、いかんせん脈絡がわからない。 因果関係を知りたい。 だから、素直に聞いてみたのだが。 「てめぇ、そんなに……」 彼は、絶句、というよりももっと凶暴な沈黙を飲み込んだ。 腹の底で煮えたぎる何かを持て余すかのように。 ぐらっ、と、両目に溜まる黒に、火が立ち上るのが見えるようだ。 間近に見て、息をのむ。 背中がびりびりした。 直後、理由を考えるのも放棄して、闇雲に火村を突き飛ばし走り出していた。 「アリス!」 という声が背中にぶつかったのは、都合のいい幻聴だろうか。 ドラム式洗濯機より手ひどく、思考が撹拌される。 逃げ出したのは、暴力的な火村が恐ろしかったせいではない。 覚えのないことで憎まれているからだ。 それは、想像以上に気持ちが悪いことだった。 酷い火傷で、皮膚が解け落ちるような。 自分が知っている『世界』の皮が、さらに一枚めくれたような感覚。 ゾッとした。 何かが、おかしいのだ。 繋いだはずの輪に、まだ組み込めてないパーツがあったりするのか? |