※御手洗また登場。クロスオーバー注意。
4.
北白川の町家に着くころには、雨が爪先に軽くしみ込んできた。
「やあようこそ、有栖川君」
驚きも馬鹿にもせず、家の主は出迎えてくれた。
タオルケットかと思うくらい大きなバスタオルを持ってきて、あまり手際のいいとは言えないやりかたで訪問者を包む。
それをどこか他人事のように受け止めながら、脳内で脱水し絞りきった果て残った考えを、乾ききらないうちに口にした。5月7日目覚めた後、思い付いたがおざなりにしていたあの疑問。
「なぁ、あんたなら分かるか? この世界は、俺にとっての『過去』か、それともまったく別物の世界か」
「君は、どうしてそう思うんだい?」
「俺がここへ飛ばされた日は、元いた世界で、ある友達と知り合った日やった。彼とその日に友達になれへんかった、その後もや。……なのに、向こうは俺を知ってる。まるでずっと前からの知り合いみたいに。あまつさえワケ分からんことで怒ってる」
「残念ながら、僕に君と友達の関係など分かりやしないよ。分かることといったら、ここが、19XX年の6月7日の、とある時空軸上の一点であるということさ」
「どの時空軸なんや」
また、出会った時見せたような困り顔で腕組みをした。
「そんなトップシークレット、言えない」
「てことは、俺はやっぱり、別モンの過去に来てしもうてるってことやな……?」
「それには、イエスと答えてあげられる」
と、ミタライが言ったところで、玄関の戸がガシャンと鳴って飛び上がらんばかりに驚いた。
上がりかまちで問答していた二人が振り向くと、埃で曇った摺りガラスの向こうに、背の高いシルエットが立っていた。
続けざま無遠慮に木戸を叩く。
「アリス、出てこいよ。居るんだろ」
「火村……?」
次から次へと、いったいどうなっているのだ。
「アリス……納得いかねぇよ……、俺から折れなきゃだめなのか?」
だめなのか、のところでガシャンとまたひとつ拳が叩き付けられた。
重くて、鈍い一撃。
行ってもしょうがないと分かっているのに、胸が痛んだ。
ふらふらと三和土に行こうとして、ミタライに肩を掴まれた。
彼は軽く首をふる。
行くな、ということか。
「なんで。俺の友達なんや」
「君、ここが『別もの』と分かっているなら、これ以上関わるのはよしたまえよ。それに、もう時間がないんだ」
「離せ、や」
優しく指が乗っているだけなのに、ずっしりと重く、振りほどけない。前にも進めない。
彼を取り巻く空間だけ、重力が変化したように。
「すまないけど、少々強引になるよ? 君が帰らないと、ご友人も君も困るぜ。そうそう、何年か後、横浜に住むある男と出会うだろう。彼を、よろしく」
少しも動かなくなった体を、ミタライに真正面からホールドされた瞬間、耳が完全に聞こえなくなった。
周りの雑音が、あっという間に途切れる。
爪先からレース編みのように解かれ、アリスの輪郭は螺旋を描いて無くなってゆくのが見えた。
右の指先が無くなったところで、触覚も閉ざされる。
恐いというより、すべてが麻痺してしまって、なにも感じない。
ただ、激しい感情に満ちた火村の顔が、視力をなくした目に浮かんだ。
しかしそれすら、遠くなる。
目も光に溶け込んで無くなってしまったけど、形のない闇の果て、一本の光の帯になった自分が突き進む記憶を最後に、意識が途切れた。
*
遠くで地鳴りのような音がする。固い地面に頬が当たって痛い。そしてやたらと寒い。
目を開くとネオンサインの眩さが飛び込んできた。まさか、と慌てて重たい体を起こす。耳は既に地鳴りではなく、雑音を拾う。
繁華街の街路。
見覚えのある、暗い穴に落ちる直前まで見ていた景色だ。
こうも色濃い世界を見せられては、先ほどまでのことが夢のように思えた。
しかし、湿った衣服があっさりこの考えを覆す。
肌からも、かすかな雨と埃のにおい。
アリスの中、ドミノ倒しを逆回転で再生するかのように、ざああっと記憶の欠片が群れを成し立ち直った。
思い出す、永遠かと思われた一瞬を。
「有栖川」
不意に肩を掴まれ、熱湯を掛けられたように飛びあがった。
「……!!」
振り返ると、公衆便所に走っていった友人が立っている。
「あれ? 藤巻らはどこよ」
アリスのリアクションなど意にも介さず、道の向こう側まで目を凝らしている。
その腕には、ハリウッド映画にも何度か出演した、国内某メーカーのデジタル時計が嵌まっていた。
時計に縋付いて見ると、今が、卒業式の次の日であることが示されていて。
「なぁ、今3月よなぁ……?」
「は? あたりまえやろ。4月やったら恐いし」
そうか、3月。3月なのだ。
手のひらを見て、天を仰いで、そしてまた友人の顔を見て。
額に手を当てられた。
「有栖川、だいじょうぶか? お父さんかお母さん呼ぼか?」
「うん。そうするわ……みんなによろしく……」
後ろで「ほんま帰るんかっ?」という声がしたが、アリスは二次会なんていう気分になれない。
一度バラバラに解かれてしまったせいなのか、やたら体が軽くて熱い。羽が生えたように駆け出したくなる。
足の裏で地面を感じる、手は何にでも触りたがった。ひらひらと揺れる幟、ケンタッキーのおじさんにも触る触る。
空腹を感じたので、チキンを1ピース求めて。
そんなことでおなかも満足して、もうひとつ、確かめたいことが輪郭をあらわになる。
火村にあいたい。
思うと、猛然とあいたくなる。あいにいかねば、と体が動く。
ひょっとしたらまだ帰ってないかもしれないが、どこかで座って待つより歩く方がましだった。
道の途中で、コンビニがあったので足を向ける。
濡れたシャツの代わりになるようなものがないだろうか、と入り口の戸に手をかけたら同じタイミングで出ようとした男がいて、ガラス越しに目が合ってハッとする。
「ひ」
「アリス」
お互い日が差すように表情がパッと開く。しかし彼のほうはすぐに眉を顰めた。
コンビニの明かりに曝されたアリスが、いかにひどい格好をしているか見たからだろう。
アリスの脇を通り抜けたと思ったら、外にいた後輩に三次会を断っている。
「ええんか」と聞く間も与えられずに、再びコンビニに戻った火村の行動は早かった。
路地に連れ込まれたアリスは保育園児の着替えとばかりに濡れたTシャツを脱がされ、コンビニで調達されたヘインズを着せられ、気付けば火村のジャケットで包まれてタクシーに乗せられている。
全てなされるがままだった。
アリスのCPUが、一時的に著しく処理能力が低下しているせいかもしれない。友人としての火村に接するのは、なにせひと月ぶりなのだ。
車に揺られると、じわじわ、心臓が苦痛からではない痛みにあえぎはじめた。
本当に、かえってきたのだ。
甘い苦しみを隠すように背もたれに沈むと、大げさにため息をついて友人は口を開く。
「さて。どういう訳で、服のまま泳いできたのか聞かせてもらいたいね。鴨川か? それともあの公園の噴水か?」
「………うん」
「その顔の傷。まさか酔って乱闘なんて、身の程知らずな真似をしたんじゃないだろうな」
「………うん」
「ひょっとして、お前、酔ってる?」
「………うん」
酔ってなどいないのだが、あれやこれや説明できないことが多いので、火村の言葉にうなずく。
揺られながら、アリスはひたすら火村が自分の知っている火村であることを確認し続けていた。
言葉とか、仕草より、一番見たのは目かもしれない。
それも火村が何を思っているかなどではなく、何を見ているのか、子供のように追っていた。
彼の視線がちょうどいいくらいの量、向けられていることに満足して目を閉じた。
傾けた頭が感じるぬくもり。
両腕はもっと多くを望んだけれど、とりあえず今はそれだけでいい。
当然のように下宿に連れてこられたアリスは、できる限り足音を殺して火村の後をついて行った。
今月半ばからどっと下宿生が退去したせいで、人の気配が薄い。
「風呂は使えねぇから」と言って、湯を張った洗面器にタオルを浸けたものを差し出される。
体はすごく疲れているくせに神経が騒ぎ過ぎたせいで、とてつもなく眠い。
のろのろと体を拭き、差し出された着替えに手足を通すと、あとは気を失うように布団に倒れ込んだ。
何度か呼ばれた気がするけど、アロンアルファを垂らされたようになった目蓋は、ぴくりとも持ち上がらない。
夢の中で、アリスは探索船のキャプテンだった。
望みどおり新大陸へ到着して、素晴らしい夜明けと、世紀の大発見に酔いしれた。
けれど、ひとりぼっちだった。
船から降りて、海岸線の始まるところからずっと歩いてきた。
雨も降った。
靴も無くして、時間にさえ置き去りにされて。
この発見を、祝ってほしい人は遠くにいる。
逢いに行きたくて歩いたけれど、遂に砂浜で行き倒れてしまった。
動けない。
手足を丸めて縮こまっていると、隣に日だまりのように暖かく、分身のように体に添うイルカが滑り込んできた。
腕を回すとしっくり馴染んで、腿を寄せたら吸い付くようにぴったりの。
思わず頬が緩む。
ふ、と冷たい空気が入り込む。
「………や。来て…………」
離すまいと腕をまわすと、少し身じろいだ後、アリスの腕に従ってくれた。
安心したアリスは、広い背中に体を預け深い海へと潜っていった。
ずうっと深くまで、一緒に。
*
朝起きたら、朝食が既に用意されていて。
寝ぼけ眼でコーヒーに口を付けたら、また今日までのことをどっと思い出してしまい、声をかけられるまでトーストとにらめっこしていたらしい。
3回ぐらい声をかけてようやく、というからおそろしい。
なんだか離人症めいた皮膚感覚から逃げたくて、おもわず火村の腕を掴んだ。
「火村」
「なんだ?」
「あんなぁ、野々宮って、知っとる?」
「聞いたことない名だな」
火村は薄いトーストをばりばりと半分に割って、二口三口で食べながら答える。食欲旺盛である。
朝の奇妙な一問一答は、あと二つ続いた。
ふたつ、癖毛がひどい白衣の男を知っているか。
みっつ、最近むかついたことがないか。アリスに対して。
最後の質問にだけ、火村は答えを詰まらせた。
「ない」と即座に言いながら、顔には「ある」と出ていたから、追求を受けることになってしまったのだ。
「なんやねん、気になるやんか」
「ないったらないっ。そうだな、あえていうなら」
「……うん?」
「昨日ずぶ濡れだったことだな」
「22の男がむかつく事やないやろそこ」
君はうちのオカンか。
「何言ってる。怒ってくれといわんばかりの事してるじゃねーか。子供だって分かってることを分かってないんだ。まさか昨日以上に、ひとを怒らせることをしたいのか?」
「知らんわ、君の怒りのツボなんぞ」
「なら聞くな。その前に学習しろ」
パンに手を付けて、一口ぶん嚥下した時するりと口から出た。
「俺は君にめっちゃ腹立ってた」
「どんなことでだよ」
面倒くさげに問う火村だったが、食後の一服に取りかかろうとしていた指が、フィルタにかかったまま止まるのに気付く。
「俺の書くものなんかに一顧だにせず、かわいい子とべたべたで、挙げ句の果てに俺が誰かと北白川歩いてるだけで、ストーキングしてるみたいに怒ってたもんだから、俺は心底腹が立ったわ」
っていう夢の話なんやけど、と笑って続けようとして、トーストの欠片が詰まり咳き込んだ。
「冗談。夢の話や。えらいリアルやって、思い出して、な」
遅ればせながらそう付け加えると、
「おい、アリス。最後の質問、更新させてもらう」
「は?」
「今、その話にむかついた」
と、言ってタバコを抜き取り、火をつけてスパスパ煙の出し入れをはじめた。どういう了見かひどいしかめっ面だ。
「………なんで」
「ありもしねぇ話に腹を立てるってどうよ?」
ついとこちらを見遣る視線に、どこか甘えを感じた。拗ねているだけなのだと気付いて、アリスの口元が少しほころぶ。
あんまり笑うと、本格的にへそを曲げてしまう。
「そんなマジに受け取るな。夢やん。ちょっと気分が引きずられただけや」
「夢ならなお悪い。話の骨格だけにすると、『アリスの小説に興味がない、女たらしの、馬鹿』みたいじゃねぇか。それに引きずられるお前が信じらんねぇ」
「ははは、そうやな」
「お前は笑うな」
へそを曲げられる寸前まで笑っておいて、意外な真相で笑わせるのが結構楽しい。
「でも一個だけちゃうことあるよ。夢で君がつるんでたん、男なんや」
こんな風に。しかし、ちょっと方向性がおかしかったかもしれないが、このときは気付かなかった。
「…………どんな変化球投げてんだよお前」
「ストレートやんか」
そこまで軽口の応酬だったが、誰かが号令をかけたように、ぴたりとふたつの口が締まった。
ふたりの間を猫が通る。ちゃぶ台を潜って、火村の膝に乗り上げた。
しかし彼は触りもしない。
この時ようやく、自分が何かを踏んだことに気付く。
アリスが気付いたということは、当然火村も。
なにせ読み解きに憑かれた男なのだ。
どんなパズルもロジックも、時間をかけて噛み砕いてしまう探究者であり、星座を見つけるように複雑な構造を見抜くセンスの持ち主で。
アリスの悪筆に目を眇め、それでもくまなく目を通す一番の読者であり。
アリス好みの焼き加減で、目玉焼きをサーブしてくれる………これは関係ないか……。
しかしなぜ、こんな回想がどどっと流れ込んでくるのかが、問題というか解答というか。
まるで走馬灯のように、友人との日々が巡る。
そうか、何かが終わろうとしているんだ。
「ちょお待って」
「もう待った。結構かなり長いこと待った」
悪筆の中に、本来の字の形を求める。
その時見せるような目をアリスに向けた。
ぎゅ、と灰皿に吸い止しを押し付けるとちゃぶ台を脇に寄せ、火村がにじり寄ってきた。親指で頬をなぞられ、ぴりっとした痛みを感じる。倒れたときのものか。
「腹が立つ理由なら簡単だ。お前が、知らないところで怪我したり、泣いてたりするとむかつく」
「泣いてへんわ。話を広げるなや」
「この会話の中心はそこだ。アリス、お前自覚あるのか? それとも、俺に言わせたいわけ?」
「……………なんで。なんで俺追いつめられてん」
「好き、って言ってくれるかなと思って」
「そういうコメントに困る発言は………」
「お前が言うかね。鈍いフリはよせよ。両思いだろって思うのは、俺だけなのか?」
「せやからなぁ」
「ああもう、じれったいやつだな」
あとはもう問答無用だった。
お互い抱く感情が、友達に向けるものではおさまらないことを確かめあって。
一度畳まれた布団は引き直され、押し倒され、何度もくちびるを重ねた。
全然違う。
目を開けると、火村の唇がこめかみに降りてきて、間を置かず彼の熱さが指の間を伝った。
ひどく色っぽい声が頭蓋に吹き込まれ、またそこからジンとくる。
色んなものがハレーションとともに消え失せて、感じたことだけ口の端にするりとのぼっていた。
無駄な思考を捨てると、一番原初的な感情だけが残る。
だから、過去に飛ばされていたときの嫉妬も、孤独も、一瞬強く蘇ったけれど。
汗の雫とともに落ちてきた火村のキスで、少しずつ崩れてゆく。
思い出しては、忘れ。
痛んでは、包んで。
泣いては、キスして。
君という存在が、深くまで入ってきて、心を震わす。
「……アリス」
名前を呼ばれることがどんなに嬉しいことか、彼にわからないだろう。
ひょっとしたら、自分自身すら忘れてしまうかもしれない、この日の感情を。
「火村、もっと、呼んでや」
「アリス?」
「君に、呼ばれるの…………ええな」
だから声を逃がさないように、ぎゅっと目蓋を閉じた。
ガラス戸の向こうで、アリスを呼んでいた火村を置いてきてしまったことが、気にならないといえば嘘になる。
けれど感じたいのは、触れている現実だけ。
目を閉じても消えない今だけを、求めて。
軽い始末の後、手足を絡める。
そういえば昨日から風呂を使ってないので体臭が強く香るが、全くいやではなく。
むしろ襟足に鼻を埋めたいような気さえした。
ラベンダーの香りでタイムスリップする女の子の話は、あまりに有名である。
今のアリスは、火村の香りをいっぱいに吸い込めば、どんな高みにでも飛べそうな気分だった。
もちろん行き先は、1時間目を閉じたら、1時間しか時計の針が進まない世界でいい。
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