2.


 
 
非常識な時間にも関わらず、火村はアリスの呼び出しに応じた。
ふたりは四条河原町の駅前で落ち合って、以前入ったことのあるこじんまりとした居酒屋を選ぶ。
小綺麗で目先が変わっているけれど、味っけのない飯を出す店からはだんだん足が遠のく。
ほんの数年前までは好んですらいたのに、一人暮らしを始めてからはありきたりで滋味のある食べ物に舌が喜ぶのだ。

深酒してはしゃぐことも少なくなった。
酔うくらいなら、ワープロの前に座っていたい。今は、一日数時間しか思うように過ごせないから。
カウンターで肩を並べる友人は、学生時代から飲んではしゃぐことなどまずない男だったが、酔えばそれなりに愉快なことをする。
そしてアリスがいかなる酔っ払いになろうがよく付き合ってくれた。


「火村、ポン酒いかん?」
「えらくハイペースだな。うちに泊まるなら、せめて階段から転ばない程度にしとけよ」
「大丈夫やまだ全然酔うてへん、って酔っ払いの常套句やなぁ。まだそんなに飲んでないし」

グラスの氷をぱきん、とひとつ噛み砕いたら少し歯に滲みた。
食べ物をあらかた片付けて、あまり酒が強くない火村は小休止にタバコをふかしている。

「まぁお前はザルの傾向ありとしてもだ、ジョッキ3杯にチューハイ3杯って結構な酒量だぜ」
「じゃ梅酒にしとくわ、おばちゃーん鶯梅のロックひとつー」
「それソーダで割ってください」
「横からオーダー変えなや」


勝手にソーダ割りにされたことへの抗議も含めて、長い指に挟まれた吸いかけをひょいといただく。
入れなれない煙を深く取り込むと、きゅうと肋骨の内側が締め付けられて一瞬血が薄くなるような感覚に、すこし陶然となる。


ずっと変えない銘柄に苦笑がもれる。
彼の時間が、まるで揺らいでいない証のようで。
火村は新しく火をつけて言った。


「覚えてるか? 青葉、藤巻、喜瀬、桃田」
「ゼミの連中やろ。あたりまえやんー、俺の脳はまだまだぴちぴちやねん」
「それに俺が加わると、ある共通項が生まれる。活きのいい脳細胞で当ててみな」
「はん? 新種のナゾナゾかいな。ちょっと待て、ナゾナゾ王者初代チャンピオンの沽券にかけて解くわ」
「はいタイムアウト」
「ってコラまて」
「答えは『有栖川有栖被害者の会』だ。今挙げた人間からタバコを奪っては、片っ端から味見してただろ?」
火村はつけたてのタバコをうまそうに吸い込んだ。
「被害やなんて人聞きの悪い。だいたい君らが揃いも揃ってうまそげにふかしとったら気になるやん。青葉は元気そうか?」
「ああ。広報で好き勝手やってるよ」

青葉は、法学には99%まぐれで入れたと言って単位を落としては笑い飛ばし、1留した挙げ句母校に勤めるようになった友人だ。

「大学職員なんて、酔狂な事やなホンマ。聞いたで。ホームページにオープンキャンパスのコンテンツを作ってちょろっと君の写真を載せたら、翌日からしょーもない問い合わせが増えて総務から文句いわれたて」
「バカバカしい。肖像権侵害で訴える前に下ろされてるしよ」
「訴えなや同輩相手に」
「してねぇよ」
「きみは存外サクッとしそうや。せや、おれのこと訴える?」

そう言って頬杖をついて見上げる。
アリスの言葉を一瞬とらえあぐねるかのようにグラスを傾ける手がとまるが、しかしそこはそれ、だてに6年の付き合いではない。

「請求内容は?」
「原告の承諾なく、被告はたびたび原告所有の煙草を奪っていた。この度重なる利益の侵害は不法行為にあたる、という流れでどや」
「原告は拒否できる立場にありながら状況に甘んじていた、というあたりが争点だな」
「勝率は?」
「計算しろよ法学部。専門外だ」


火村と会話するのは気持ちがいい。
ふたつの櫛の歯同士を、まるで噛み合わせたかのような密度の高さが昔から好きだった。
会計に立った女性二人組が彼の見栄えの良さに目を奪われているのも、過去によくあった風景だ。


上司の野村もそこそこの美形で、仕事の場面で公私混合する女性が社の内外にいるのだが、アリスにしてみれば友人の方が余程いい顔をしていると思う。
若白髪で、クールビューティ通り越してやや険があるのが玉に瑕。
野村は甘い顔立ちのくせに、人を刺すような目つきがむかつくし、目下に切り口上な物のいい方するのも最悪。
外面がいいから営業で持ってるようなもので、裏表のない火村の方が同じ男前でも絶対いい。


「おれだって好き好んでこんな顔してねぇよ」
「あれ、口に出してた? モノローグのつもりやったんやけど」

いつの間に頼んだのか、なみなみと水の入ったグラスを差し出される。

「今頃酔いが来たか。だからペース早いって言っただろ。水飲んどけ、ほら」

やめやー、子供やあらへんから自分で飲めるわ。んー……きもちいいかも。
あっ、おれの鶯梅!
おまえこそ酒強ないくせに、そない飲んでどうするんや。


「お前より飲んでない。ここ出るんだよ、酔っ払い」
「え、まただだモレやった? おっかしいわー。いくら? ほい。これでええの?」
「ほれ釣り銭だ。立てるか?」
「ん」


肘下を支えるように椅子から引き上げられた。足にはまだきてなかったが、少し視界が狭い。
でもまだ大丈夫な範囲だ。

店を出ると、高瀬川のほうから吹く心地よい風に包まれた。
眠気は軽くもう一軒くらい行きたい気分なので、自転車のキィを手に取ってアリスを連行する態勢へと入っている友人を引き留める。


「ちょおまちやー。呼び出したんこっちやし、次は奢らせてもらうからどっかいこ?」
「お前、シラフの顔してスッコーンと落ちるから恐いんだよ」
「そこまで酔っぱらってへんもん」
「酔ってる」
「足りん。もっと酔いたいんや」


川沿いの道から一本入ったこの通りは人気もなく静かだ。
他の誰かの目があったら、こんな甘ったれた言葉は出てこなかったかもしれない。
まるでどうしようもない酒飲みか、寂しがりの女性が吐きそうな台詞。
今の気分は前者に近い。
ぐだぐだの酔っ払いになって、道路で寝ちゃったりしてもいい。


そんなん最悪だと思ってきたけど、今夜ばかりはいくらかネジを飛ばして、我を忘れてしまいたい。
来週も仕事あるし。
書きかけの推理小説は、次の新人賞に間に合わなさそうだし。
閉塞の度合いを深める日々に、愚痴を口にするのも疲れてできない。
ジェンガのようにぎりぎりを見切って積み重ねてきたものすら、時々揺らげば不安になる。
飄々とマイペース、穏やかに自信家、っていうのがスタンスなのに。


「ほなここで解散しよか。引っ張りまわすのもアレやし」
「バーカそんな心配するな、おれは付きあうつもりはあるんだぜ。道で寝るのはご免だがな」


ああまた発言と思考がごっちゃになっているようだ。
つん、と前髪の一筋を引っ張られて、なんだか恥ずかしいような懐かしいような気持ちになる。
今よりずっと髪を長くしていた頃、たまにやられていた。
半分、夢を食べて生きてるようなかわいらしい時代の記憶。


「そっちこそ。ご心配なく、一人でも立派にサラリーマンらしゅうナイトクルーズしてくるわ。じゃ、付き合うてくれておおきに。おやすみー」

挨拶のつもりでカクッと頭を垂れて、クルッと河原町駅方面にきびすを返す。
始発まで飲めるところをふらつく頭で思い出そうとしていると、一歩も出ないうちに右腕をとられる。
よろめくまま重心を後ろに持っていかれて、とすっ、と背中に壁を感じた。
壁じゃない、火村だ。
とられた腕はそのままで、後ろから支えるように胴体へ腕が巻き付いている。

「聞けってのアリス。なんだってこうも強情なんだお前は。弱ってんのに飲み過ぎ」

アリスの言動をやや持て余しているかのような呆れ声が耳に吹き込まれる。
平素だったら黙っちゃいない言われ様だが、こんな酩酊一歩手前の耳元に自分好みの音が響くとだめだ。
ざわっ、と露骨に背筋を震わせてしまった。
どこかで空き缶が転がって、頭のネジが一本飛ぶ音に重なる。

「弱ってへん、疲れとるだけ。でも眠たくないんや」

酔いのせいか火村のせいか判じかねる、かすかな痺れが指先にまとわりつく。
くすぐったさが残る右耳を、火村の肩にこすりつけるように凭れると、突き放されはしなかったが拘束が解かれた。
川の方から、今度はすこし冷たい風が吹く。


ひと呼吸ぶん体を預けて夜空を見上げたら、春の星が頼りなく霞んでいて、見つめていると夜のたもとに吸い込まれそうだった。
背中で感じる存在だけが、自分と混じりあいそうな闇とを分けている。
分かれているから、自分の輪郭が確かになる、体と心が結びつく。
生まれ育った土地でもないのに、少し長い旅から帰ってきたような気がした。

ああ、ちがう。きみがいるから。

あり得ない話だが、たとえ自分の名前を忘れるようなことがあっても、有栖川有栖というふたつとない名を思い出させてくれるような存在なのかもしれない。
そう気付いたとたん、アルコールよりも強い感情に胸を灼かれた。

「眠らせてやるよ。行こうぜ?」

耳が、おかしい。
火村のひとつひとつの声の粒立ちが、砂糖を含んだように甘い。
もうひとつのホームグラウンドが、かくもスパイシーで口にやさしいなら、少し甘えてみたい。
向かい合って火村の鎖骨に右の掌を置くと、かすかに身を引かれる。
これはペナルティもののラフプレイだろうか?
不機嫌な形でなく眉根がわずかに寄っているのが、どんな変化球なのか妙にそそられ、火に油。


「おやすみのキス、してええ?」
「……本格的に落ちたな? お前みたいなデカイの担いで帰れないから、せめてしっかり起きとけ」


火村の声は本格的に呆れている。
たしかに、ブレーカーなら落ちた。
あたまが先か、からだが先か分からないけれど。
バリトンのせいだし、酔っているせいもあるし、大前提として半日あたまん中がぐるぐるになってたというのもあるし。

「残念、起きとるよ」

どうしたんだろ、今日は友人にとてつもない吸引力がある。月が隠れてるせいかもしれない。
ちゅ、とくちびるをあわせる。
途端友人は四肢どころか、視線まで固まらせてしまった。
アイスクリームにかけられたハーシーのチョコシロップのごとく、それはもう見事に。
噛み付いたらぱりんと音がしそうだとアリスは思った。あのチョコシロップは大好きだ。


二度目は角度を深めて吸い付く。
ふたりともずっと女性相手に『する側』だったので、目なんか閉じてない。
こんなに間近で目を合わせたことなどなかった。
あたりまえか。キスなんかしたことない。


視線どころか、色んなところが近くて、距離がなくなっている。

ちぇ……少し顎を上げなくては、うまく重ならん。

アリスは、柔らかいのくちびるの裏で皮膚のざらつくところとしっとり濡れたところのふたつを感じたけれど、男同士というのは気にならなかった。
地から浮きそうな体に、それはとてもこころよい温度だ。
ためらいがちに舌を誘い出し、触れあわせる。
ぬるぬるするくちびるを隙間なく重ね、むこうとこちらでゆるく吸いあってはかき回し、引き返せないくらい舌を絡めあってしまう頃には、あまりの気持ちよさにアリスのまぶたは勝手におりていた。
鎖骨に置いた右手は、もはや頼りなく布地をかき寄せるばかりだ。

追いつめられる。

人通りがないのをいいことに、左手のブリーフケースをあっさり手放し、引き寄せるように腰に手を回した。
ここまでして火村はようやくコーティングを剥がしたらしく、アリスの後頭部に手を添える。
大きな手に髪をかき乱されて、ぞくんとまたそこから快感が背筋を駆けおりて、耐えきれず息をつく。
いつの間にか腰をホールドされており、よろめくのをぐっと支えられた。
よりぴったりと重なって。
それは熱の集まりを知らせてしまうことでもありーーーーーーー火村が我に返ったように中断した。


「アリス、おまえ」
「あぁ……しゃあないやん、きみと違うて私生活は干ばつ状態やから」
「おれも女なんかいねぇよ。……辛いか?」
「ん、ちょお来るものはあるわ。つかきみ平気なん? キスされるわ勃たれるわで、フツー引かんかな?」
「お前のフツーじゃない好奇心には慣れてる。よそでやるなよ?」
「するか」


キスがとけて、なんとなく抱き合ってた腕もとく。
お互いの胸の間でキャメルのフレイヴァーが、ふわん、と香った。
考えるより先に口走っていた。


「じゃあ道端やのうて布団やったら、いっしょに寝てくれるんか?」
「今日はえらく飛ばすじゃねぇか。これで満足しとけ、お互いのためだ」
「じゃ朝まで飲むし。泥酔して道で寝たる」

くるりと回れ右したら、また袖を引かれる。

「駄々こねんないい年して。そんなにたまってんのか?」

とてもとても、バカにしたような口調だったが、

「うん。たまってるし、疲れとるし、でも寝れんし」

いまさらカッコつけるのもバカバカしくなって、アリスは言った。

「今夜だけ。そのあとは忘れる」


火村はちょっと面食らったように押し黙っている。
そりゃそうだろう。
6年もつき合っている同性の友人に、欲求不満を突き付けられたら誰だって絶句する。
性的に未発達な中高生ならまだしも、女性と交渉したこともあるいい大人が、だ。


火村とアリスの間で、こんなにも近い接触は今夜が初めてだった。
恋じゃない。
でもそれ以上に繋がりは深い。
触れたい衝動をすんなり受け入れたものの、ここまでからだが正直に反応するとは思わなかった。
求める先が火村とは我ながら不思議な気持ちだったが、これが自然の流れならそれもまた有りだ。


「……言っとくけど、そっちは経験ないから知らねえし? ヤられるなんて想像もできない」
「きみを押し倒すつもりはあらへんわ。つか無理、おれのほうが体力ないもん」
「おれがおまえをねぇー」
「よういわんわ。あんなガッツリとキスかましといて、今さら勃たんとか抜かすなよ、おれが空しいから」

そう念押すと、

「それはねぇよ」

と、戯れるようにネクタイを軽く引かれる。
これは、同意したということなんだろうか?
崖から遥か下の海をのぞきこむような、生々しい切迫感めいたものが胸に衝きあがって、急に心拍数が上がる。
剣先を離され、アリスのよく知る細い布地が何か別のものみたいにするりと垂れおちる。



もみくちゃになって、なにもかにも手放したい。
行こ、と駅前にあるホテルの方を指し、足下のブリーフケースを拾って歩き出す。
肩を並べたふたりはあまりにいつも通りで、なのに、目の前のことしかもう見えない。


夜が明けることなど、考えもせず。
 
 

 
 
 

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