3.




格安だが清潔なシティホテルは人気があるのかほぼ満室で、ツインを希望していた二人はなぜかトリプルルームへ通された。
見たこともない広さに少し身の置き場に困って、すぐ交互にシャワールームに足を運ぶ。
すっかりキスにはまってしまったので、濡れ髪を乾かしもしないでベッドにもつれ込んで、からだをまさぐって。

立ち止まるのがこわいのかもしれない。

この、アルコールの御技だけではない恍惚感、かるく世界が回ってしまうほどの快感を途切れさせたくなかった。
フットライトだけでも視野は得られて、硬い体を絡めあっていることは隠し様がなく。
それでもオレンジがかった灯りは、禁忌めいた行為を煽りこそすれ気を削ぐことはない。

向かい合って手で一回抜いた。
火村が抑え気味に色っぽく声を漏らした時、自分はやはり声フェチなんだと思った。
下腹にモロきたから。

心臓がすごい勢いで稼働しっぱなしなのに、二回目は片手で数えるほどしかやったことない舐めあいっこをさせられた。
友人の顔を跨ぐというエキサイトな状況だ。
目の前で半勃ちになってるそれを口に含み、ちょっとずつ滲んでくるものを思いきって飲み込んで、まぁなんてことないか、と割り切れてしまったあたりから望みどおりの崩壊が始まった。
そこはそれ自分の持ってるのと同じ器官だし、何となく舌の動かし方が分かってきたら競い合いみたいになる。

いや負けるの分かってたけどな、べろちゅーで火村のテク思い知ったから。
すでに1本頭のネジを失っているのに、さらに2、3本は飛んだ。
最後まで吸い込まれるように啜られて、火村の太ももに縋りついて喘ぐ。
向こうをイかせられなかった上に口の中で暴発しまったのは、飲むなと訴えているのに火村が腰を掴んで離してくれなかったせいだから仕方ない。

滴った涎を拭いながら、振り返って火村の口元を見る。
向こうが舐めとったものは間違いなくアリスのあれだ。
気持ち良さに流されつつも、やはり顔が引きつる。


「なんで抵抗ないんや、不味いやろ」
「ここまで来た以上はなんだってありだろうが? よかったんだろ、喉突かれて恐かったぜ」
「わ、悪かったな……おれは下手やったみたいやし」
「楽しみはとっとくほうなんだ」


おまえの笑顔の方が恐いわ。

くったりとベッドに沈んだアリスに「お遊びをしようぜ」と、言いおきベッドを降りる。
こちらが隠れたくなるほど見目のいい体つきをしている。
手に紙袋とネクタイ。

「縛りなんかするんか? かなんなぁ」
「手なんか縛らない」

言うなり、かっちりと横一文字を成す目の前の鎖骨が隠れた。
いや、目隠しが施されたのだ。

「顔がありありと見えない方が集中できるぜ」

なんだか楽しそうな気配は、火村イコール変態性欲の権威という認識をアリスの中で強固にした。
自分のことは棚上げだもちろん。


確かに。
権威の言うことはただしい。
喉がカラカラになるほどたっぷり汗をかいて、セックスに集中した。
一度スイッチが切り替われば、火村は置かれた状況に躊躇いなく入っていく。
むしろリードしていこうとする。
今それが、この上なくアリスを救っており、苛んでもいた。


「息、とめるなよ?」
「ウ……あ、ぁっ。奥、や……やっ」

誰の味も知らないところに友人の手がかけられ、彼の指の長さに翻弄されていた。
火村はまだ一度しかイッないからカチカチになっていて、腹の間でズルリとしなる。
手探りでそれを捉えて包んだら、は、と低いのに甘い声。
切れ切れの息をいなして、フンと鼻でわらってやる。

「なんや、これ。『おれがおまえをねー』ゆうたよな? 前言、撤回せえよ?」
「根に持ってんのかよ。しつ、こい」
「ふあ……ぁ! そい、うん、ズルい……ああ」
「感じるもんはしょうがないだろ? ほら、ココ」

ドライな口調だが、吐く息は荒い。
言葉以上に煽られる。
身をよじって逃げをうつと、すんなり固い腕に引き戻され、よりやらしく攻め込まれる。
きゅうと指を食んでるからだのせいで、軽口なんかぼろぼろだ。


まったく火村には驚かされる。

来る道すがら深夜営業の雑貨店で何かを買い求めていたが、まさか避妊具やハンドクリームを購入しているとは思わなかった。
誘ったのは自分だったが、ここまで弾けてくれるなんて聞いてない。

「ん、ん!」
「声……我慢するなよ」

こり、と胸の突起を齧られながら、脳髄をとろかすような声でささやかれるからたまらない。
予想だにしない衝撃。
これほど苦痛の底にある快楽がすべてをゆさぶるなんて。
断たれて研ぎすまされる。
合わさった箇所と、味を知るくちびると鼻腔と、色めく声を聞きたがる耳と。


この布切れ一枚で自分の中の何かが、闇より立ち現れて。
ぐずぐずになって、突き上げられ、泣かされ。
聞いたことのない音楽で体中がいっぱいになって、喉から甘い声があがる。

そのたび、アリスはアリスという名の違う生き物になってゆくような気がした。

あ、またイク、と意識を飛ばしかけた時。
暗闇がほどけて、胸が詰まるくらい真剣なまなざしの火村と視線が絡んだ。

なんて顔ーーーーーーーー

瞬間、肋骨の奥ぜんぶ、かあっと灼かれた。
昏倒しながら笑ってたかもしれない。
生まれてすぐ会えたひとには、一瞬で全部かっさらわれる。










その熱は、朝の光の下ではあっという間にかき消える。
そもそも忘れるという契約のもと、変容させたイレギュラーな関係だ。
火村とはあの後連絡を取り合っていない。


土日は溜まった家事を適当にこなして、あとはワープロに向かっていた。
疲れたら読みかけの単行本を開き、またキィを打つ。
一行ごとに先週のモヤモヤがデリートされていくようで、眠気に負けた額がキーボードを打ち付けてしまうまで机から離れられなかった。




そして何事もなかったかのように、環状線に乗り込む月曜日。
アリスは車内の吊り広告へ見るともなしに目を当てながら、ぼんやりと先週末の出来事を回想していた。

忘れるべきなのに、だ。
休みの間あえて遠ざけていたせいか、妙に記憶が最適化されており余計に厄介だった。
膝の上に乗せたブリーフケースの角に、擦り傷を見つけてため息がこぼれる。
なぜ瑕にしたのか、記憶はしっかりあるから。
友人と、酔っていたとはいえディープキスと、それ以上のことをしたのだ。
おまけに『熱』の感覚だけがポツンと残っているにいたっては、「ええ? どちら様のこと?」と言いたい。
言いに行くあてもないが。


『一夜限りのアリス』がのぼせただけなのか、消えると知っていてそれでも落ちてしまった恋なのか。

恋?


こんな少女漫画じみたフレーズが月曜の朝っぱら、脳内サーキットを周回しているからおそろしい。
夢の続きを生きているような、不可思議な感覚が意識を支配する。
放っておいたら二重人格にでもなりそうだ。
自分という個がぽやぽやと乖離してしまう前に、とりあえず結論だけ先に出そう。

恋という幻想を、幻想してしまった、幻想の入れ子状態なのだ。
きっと、憑依されたイタコさんがユーレイに同調して泣いて、出てった後も『泣いた』感覚が残るのと同じ現象なのである。
目隠しのもたらした催眠効果とかもありそうだ。
初めてのシチュエーションが緊張をもたらし、過剰に自律神経がアップダウンして、イッたあとはほんとうにくらっくらした。
あれは絶対、神経系を狂わせる物質が分泌されていたはず。
幻想とは、ホルモンによるまやかしに違いない。
雑学データベースを引き出し、当て込んでみて整理すると心の中も収まりが良くなる。
からだが行為を思い出さないようにセーブする必要があったが。




新しいネクタイで臨んだこの日は、嘘みたいに仕事が捗った。
先週の汚名返上を狙うつもりはなかったが、あの夜のことを封じ込めたくて、仕事に意識を集中させたからかもしれない。

久しぶりにまともな時間に昼食が取れそうなので、同期に誘われるまま近くの定食屋に行った。
ここの汲み上げ豆腐定食をこよなく愛する同期の竹田有紀は、システム統括担当にいる。
SEではないが、イントラネットや伝票管理システムを社内の専門員として管理するのが仕事だ。
大学進学を切っ掛けに福岡からやってきて、そのまま居着いたという。
博多人形のように陶器めいた肌を持つだけに、皮膚に敏感なのだろうか、よく顔色をチェックされる。


「先週背負ってた憑物おちてるわ、血の気が戻ってる。土日に気分転換した?」
「なんも。寝て食って、ダラダラといつもどおりや」
「うそでしょ、有栖くん。引きこもってたように見えないわよ? 入社時のつるるんて感じが、ちょっと戻ってる」

パールホワイトの爪が、なんの色気もなくアリスの頬を小さくつついた。
早くに親元から自立していたせいかもしれないが、時々竹田は年上のお姉さんみたいになってアリスをかまう。
下の名前で呼ばれることに勘ぐる同期もいるが、そんな仲ではないので笑って否定する。手を振って違うわ、と言いながらちょっと得意な気分さえある。

「はぁ? 男がつるるんなわけあらへんやろ」
「自覚ないのねぇ。まぁいいわ。ところで、すっごく言いづらいんだけどさ、まぁ言っちゃうけどさ。あのね」

それこそつるるんとした豆腐をすくうスプーンを置いて、竹田は長い黒髪をゆるく横に流し、白い首筋をさらす。
真っ昼間の定食屋に、似つかわしくないなまめかしさである。
なにが始まったのかドキドキして、インゲンのごま和えに箸をつけたまま止まってしまったアリスは、細い指が示した答えに凍結した。

「ここ、横髪にぎりぎり隠れてるけどあたしくらいの目線だと、見上げればわかっちゃうから気をつけてね?」

思わずバッと耳殻の斜め下を押さえてから、これは肯定しているようなものだと気付き、顔に血が上るのを感じた。
やられたっ……!
彼女とは酒の席でぶっちゃけた話もよくするが、こんな不意打ちは慣れてない。
いや、むしろ気付いたのが彼女で良かったのか?
でもでも。
ぐるぐる回って食事の味が遠のく。

「いじめるつもりはなかったんだけど。ごめんね、お節介なのは生まれつきなのよ」
「いや、ここで上手いボケを思い付かへん自分も情けないわ。うう〜カムバック大阪のDNA」
「ネタにしようっていう根性がたくましいわ……他県人にはないノリね」

跡が恥ずかしいというより、火村を思い出してしまうのがまずかった。

社に戻った時、竹田はミーティングコーナーにアリスを連れ込んで、コンシーラーでそれを消し込むことを申し出た。
定食屋では笑い飛ばしていたが、外出を控えているらしく、動揺が透けて見えたので気の毒になったのだ。

「なぁなぁ、隠れた?」
「ばっちり。ああでもジレンマだわ」
「はあ?」
「なんだって男の有栖くんが、M.A.C.のこの色と相性いいかってハナシよ!」

ああもう〜、と薄いケースを握りしめて身をよじっている。
マックといえばパソコンしか思い付かないアリスにはわからない話だ。
置きみやげをした『彼女』について2、3聞かれたが、答え様がなかったので黙っていると、人妻と未成年はやめとけと本気で心配された。
不倫と淫行と、友人との火遊びをうっかり比較してしまったアリスだが、どうにも倫理観の置き所に困ったので「勝手に悪者にするなや」と、それだけは間違えてくれるなとお願いしてみた。




この日、野村とは仕事上必要な確認や連絡を2、3取り合っただけで、後は穏やかに背中を向けあっていた。
言うだけ言ってフォローもないが、機嫌が良ければそんなふうに流していくやつなのだ。


火曜、水曜は朝から行動を共にした。
しばらく大人しく行こうと、黙って野村のペースに合わせて仕事を進めると、思いのほか効率良く終わった。
他社の人間の目には名コンビみたいに見えたようで尻が痒かったが、とりあえず笑っとけ。
あるところでは、野村が「今後は有栖川を通してかまいませんから。任せてますので」と取引先に売り込むという、どういう罠なのかそんなサプライズ付きだ。
そういえば、彼は手早く完璧に近い仕事をするのが大好きだということを思い出す。
やたら口と手の回転が速いのは、年の功だけではないらしい。
彼の美点だけを抜き出していけば、それはクライアントにとっては望ましい営業マンなのかもしれない。
アリスなどは割とマイペースに仕事を進めるため、彼の軽佻にも見えるフットワークが苦手だった。
つまるところそういう点が、上司好みじゃなかったのかと思わぬところで気付く。


そして木曜、金曜になると、色々諦められた。
野村の性格も、してしまったミスも、午後3時にずれ込むせいでランチサービスを逃してしまう昼食時間のことも。
乗り越えたというのはおこがましいので、諦めたといってみる。


そうすると、諦めた諸々のなかぽつんと所在なく残るのは友人の姿で。
謝罪も感謝もできないことに、今さら後悔をした。


金曜の夜、ほぼ同じタイミングで残業を片付けた数名と、居酒屋で軽く飲んで終電で帰ったら、ボタンを点滅させている留守電が待っていた。


 
 
 

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