4. どうせ逃げられやしない、と再生させる。 『アリス、戻ったら折り返し電話くれるか?』 『またかける』 『いつでもいいから電話くれ』 1時間置きに3件も、火村は電話をくれていた。ちょっと恐い。 「きたー……」 ちょうどあれからひと回り巡った今夜、頃合いだと思ったので避けるように寄り道したが、文明の利器の前にはなにも意味がない。 次会う時どうしようか、月曜日整理をつけたはずだったが、あれはあくまでも『熱』の錯覚についてだった。 ほかの、もろもろ具体的で揺るがぬ事実については、だめだ。 ふと思い出しては慌ててしまい込むを繰り返していた。 気恥ずかしさが先に立って、動転しそうになる。 忘れることなんてできない。 パソコンのファイルじゃないから、削除キーで完全に消すのは不可能だ。 日常にまぎれながら核心だけ鮮明に、所々歪曲などしつつ記憶し続けるだけだ。 その上で忘れるというのは、この口に蓋をするということ。 火村の前で、何をいわれようが絶対に覚えているそぶりを見せないこと。 火村とこの先いかなる関係になろうと、たとえ疎遠になってしまっても、自分の胸だけにしまっておくこと。 あれは、日常にできたひずみだ。 両の手で足りるほどしかいない親友の中でも、火村は別格といってもいいほど近しい。少なくとも自分にとって。 それでもふたりには緩やかな線引きがあった。 打ち明けられない秘密があった。 心の内奥を伏せていることはふたりにとって特別なことではなく、もはや日常である。 からだを近付けたら、その線を侵すことになるとは思わないが、少なくともふたりの日常ではない。 スムースな表皮を被った日常に、カギザギを作ってしまったという自覚はある。 だから黙ってしまうのが最善。 ひずみが、友人としての親交までも飲み込まないように。 カギザギを閉じろ。 電話機の前で胡座をかいてウーンと唸ると、避けてきたことがぽろぽろと溢れかえってきた。 作らなくてもいいカギザギを作ってまで壊れたがった理由は明白。瞬間最大風速と例えてしまいたいほど、報われない現実という名の暴風に、すっ飛ばされそうだったから。 もがいて手を伸ばす先、火村を選んだのはたぶん意図的だった。 救いになるかどうかわからないが、自分一人だけのマスターベーションでもなかったようで。 火村にしては驚天動地な台詞があったことをふと思い出す。 『おまえ、思ったよりかわいいな』 うっとり、みたいな口調で。 その時火村は、アリスを余裕のない激しさで突き上げていた。 どう、受け取ればいいんだ? これは。 頭のいかれた単語の並び方に衝動を動かされたこちらも、相当回っていたに違いない。 一夜限り生まれて壊れた自分は、頭のてっぺんまで刹那に没入していた。 思い出すと、あの夜の自分が乗り移ったみたいになって少しからだが火照る。 このことは生涯秘密だ。 忘れられなくてもいい。 口に蓋をしたまま、全部忘れた振りをしたままいればいいのだ。出来ないわけない。 これ以上火村と遠ざかることを思うと、いても立ってもいられないような焦燥感がじわりとわきおこる。 それは恥ずかしさを上回る強さで思う、繋がりをなくしたくないという気持ち。 電話をしたいけれど、時計の針は午前1時を示す手前で、「いつでもいい」とはいえコールバックは遠慮すべきだろう。 シャワーを浴びると急に眠気に襲われ、うすっぺらい布団に潜り込んだ。 7日前、素肌に感じた真っ白なシーツがどれほど快いものだったか、それこそようやく忘れられそうだった。 学術書のコーナーで見つけた後ろ姿に近寄ると、あと三歩のところで「アリス?」と気付かれる。 その目は今朝の電話の声と同様になんの気負いもなく、アリスは安心して横に並べた。 「晩飯は?」 「呼び出しておいて悪いがもう済ませた。先生の家で出されて、断れなくてな」 「かまんよ。飯付きか、ええ仕事やん」 結局、翌早朝しびれをきらした火村に叩き起こされる形で、電話での会話が実現した。 朝ご飯も食べていないうちから夜会う約束をさせられ今に至る。 火村は、専任教授宅の古書整理の人足として雇われ、大阪まで出てきたのだという。 足下には、おさがりの専門書が置いてあった。ささやかなご褒美つきらしい。 「冗談。男はただの労働力だから扱き使われたよ。おまえは?」 「これからや」 「ちょっと早いが、飲みにいくか?」 そうして重そうな布袋を軽々と手に取って歩き出す。 跳ねる太腿をあっさり押さえ込まれた腕の力を思い出し、慌てて打ち消した。 ふたりは飲食店の集まる界隈で適当な店を選んで腰を落ち着けた。 先週の金曜日の教訓もあったので、アリスは食べる方に走った。ごぼうの唐揚げにハマって、火村の分も貰う始末だ。 火村は既に腹がくちくなっているから、その食欲旺盛な様子を眺めている。 「なに見てん?」 「顔色良くなってるな」 「そうか? 毎日見てる顔やからな、わからんわ」 揚げ物に飽きたら、今度はまろやかな円を描くおぼろ豆腐にレンゲを突き立てる。 おぼろもいいけど、肌に敏感な竹田さんの食べてた豆腐、美味そうだったな。 ほっぺを突かれたことも、ついでに思い出す。 顔色のことを同期にも言われたことをぽろっと話すと、火村の眉根が3ミリくらい寄った。 「つき合ってるのか?」 「そういう仲じゃないんや、よう勘ぐられるけど。彼女長女体質やから、おれみたいにぼさっとしとる人間を弟みたいに構いたいんやろ。こないだなんか残業しとったらプッチンプリンくれたんやで? おかしいやろ、ええ年した男にプッチンて」 「おかしくはないさ。おまえ大学生の時だって、好きでよく食ってただろ」 「よう覚えとるね。まぁ、好きなんやけどな。弟扱いちゅうのかなぁアレは。しらんけど」 火村はさらに3ミリ皺を深めて、複雑だね、と言った。 あれ、と思った。 いつから女の相談なんか乗るようなキャラクタになったのか。こちらのほうの眉根も寄る。 それ以上言葉もなく、ぐいと呷ったライムチューハイはもう半分になっているのに気付く。 体を動かすと酒が進むというのはよくわかるので、自分のも含めて追加をオーダーする。 なんとなく手もとに飲み物がないと落ち着かないのだ。 「仕事楽しそうだな」 「ここ一週間は平穏無事に来れたわ。残業多いし楽やないけど、まぁなんとか回っとる」 「竹田さんが親切だし」 「せやからそんなんやないって。そここだわりドコちゃうやろ。きみこそ、えらい華やかなようで?」 法学部時代の友人が、火村同様院生になり英都にいるので、友人伝いに火村の身辺をちらちらと聞き及んでいるのだ。 学部生どころか、他学の院生にまで火村の評判が広がっているとかなんとか。 「だから、付き合いたいような女はいないんだよ。あれは華やかとは言わない、かしましいだけだ」 「贅沢ものめ。まぁきみはそういうヤツやし、ひとの好みばっかりは変えられんし?」 「その通りさ。ああ、なんだって惚れちまうのかね……」 頬杖をついて、なかば本気で憮然としている。最近何か女難があったのだろう。 「へぇへぇ、あいかわらずモテてらっしゃる」 「そういう意味じゃないんだが……。そうだ。話は変わるが、先週おれは貰い過ぎているようだぜ?」 ツナギのために口にした、といったふうに話を始めたので、なんのことか一瞬打ち返すのが遅れた。 小首を傾げていると、4枚の千円札がグラスの前に置かれて、ようやくホテル代のことを思い出す。 火村が目を覚ますのが恐ろしくて、身代わりとばかりに諭吉を一人置いてきた、あの朝。 首の後ろがざわざわっと騒ぎ出す。 小さく鼻呼吸をし、お札を確認するふりして目を伏せる。 「酒をおごるつもりもあったし、やり過ぎと思うてないから受け取っとけ。あの日の宿代を返されるんは業腹や」 「こっちはいいから、おまえ仕舞えよ」 「いらん」 「そんなにこの金は目障りかよ」 そう言った火村の口調がどことなく刺があるように思われて、顔を上げる。 彼の目は、いっそ冷たいと言ってもいいほどに硬質な黒みをしていた。苛ついたような視線に、ふとどういう種類の表情なのか、あてはまりそうな答えがぼんやりと脳裏に飛来した。 それが何か確定させないまま立ち上がる。 「何つっかかってんねん。目障りとかそういう問題やないけどもうええわ。金を挟んでいるいらんは野暮やな。今日の飲み代にあてるで?」 「おまえがいいなら異論はねぇよ」 伝票に示された金額をチェックしたが、これでほとんどまかなえそうだった。 「ええもなにも。労働は尊く、稼ぎは儚い。折角のバイト代や生活に使え」 火村は、苦々しく「生活ねぇ」と言った。 疲れたという火村は、アリスのアパートに寄るのを辞退したので駅で別れた。 部屋に戻ると、思いのほか疲れていて電気をつけるなり座り込んでしまう。気が張っていたらしい。 「あー……あかん。これから書かなあかんのに」 帰りの電車で思い付いたことを入力しなくてはと、ワープロを起動させる。 グレーっぽいウインドウがメニュー画面を表示するまでぼんやりと見つめていると、急に、火村がここにいない意味が明瞭になってきた。 向こうからも、距離を置かれているのだ。 それはホテル代のことに如実に現れていた。 抗議めいた口調の意味がわからないけれど、返される差額をアリスが受け取らなければ、火村の中でなにか線引きができなくなるのかもしれない。 忘れることなどできないと。 頭を悩ませているのは、なにも自分だけじゃなかった。 消すことも、無くしてしまうことも。 友人の心境が後悔か諦観か、どちらに傾いているのかアリスには想像が付かない。 あの日のことを忘れるということは、後日答えあわせをする時間を持たないということだから。 今は部屋を行き来することすらひと呼吸置いて、斟酌する必要があるらしい。 昔は下宿に上がり込んで、ひとつの布団を共有したことすらあるというのに。 それにしても、あの態度はなんだろう。何に対して突っかかってるのかわからない。 酒を飲もうと言ったり、アリスより随倍タフなくせに「疲れた」とか言って背を向けたり。 全然入ってこない、行動の意味が。 『目障り』という言葉を思い出して、みぞおち辺りが少し、しくん、と疼いた。 追い払うような冷たい目を向けられたことが、今頃になって重くのしかかった。 いずれもアリスを直接的に攻撃する向きで使われてはいなかったが、不透明な関係性の中で剥き出しにされた負の感情はこちらの後ろめたさを刺激するばかりだ。 こんなはずじゃなかった、という思いが、振り返らないと決めていた自分の心の奥底から意志とは関係なく浮上してしまう。 そんなこと思いはじめたら、いよいよ自分を責めたくなるじゃないか。 どうしてあんな、誘うようなことをしてしまったんだろう。 アリスの押し付ける無茶に火村がつき合ってくれたのは、向こうには悪ノリだとわかって、なお遊ぶだけの余裕があるからだと思い込んでいた。 しかしそれは勘違いで、はずみとはいえ寝てしまったことを実は苦々しく思っているのだろう。 気持ち良かったなら文句いうなとも思うが、強引に手を引いたのは自分であり、そのへんあまり強気になれない。 もう家に着いた頃だろうか。受話器を見つめる。 火村の声が聞きたかった、気持ちを確かめたかった。 おやすみと、まじりっけなしの友情を込めて言って欲しかった。 でもそれもまた、抱えた秘密の大きさに手を焼く中途半端な気持ちがさせることだと思って、アリスは縋りたがる拳を握りしめた。 もうこれ以上、重荷になりたくない。 そして、小さな鉛を飲んだような不快感とともに2週間が過ぎた。 土日の間も工場は回っているので、営業マンが休みの間に発生した書類やら連絡事項やらが月曜はちょっとした山になっている。 午前中はルーチンの時間とし、片っ端から細かい雑事を片付けているところ肩を叩かれた。 「有栖川さん、課長印抜かってるで」 「えっ」 総務にいる親しい後輩だ。ぽっちゃりした指で伝票を指し示す。確かに、20枚一組で束ねられているなかの一枚に判子がない。 ちょっと乱暴な動きで席を立ったら、目を丸くした後輩が大げさに驚く。 「そないイラっときてるて珍しいですね」 「俺かて月曜の朝はキリキリしとるで。営業部屋じゃ普通やろ、こんなん」 「せやかて、そないに『チッ』とか露骨なことせえへんかったやないですかぁ」 コワー、と言うわりにはズケズケと指摘してくれる。 かように神経の太い後輩がミスに気付かせてくれたことよりも、無意識のうちに舌打ちなどをしてしまったことのほうがアリスの中で軽いショックだった。 舌打ちなんて、社員証ぶら下げてからこっちしたことない。 仕事場でする所作としては、タブーに触れるものだと心のどこかで思っているからだ。 「今日中に回してくれたら、昨日の日付けで僕が突っ込んどきますから、ね」 と、頼もしいことを言われてますます首が下を向く。 イライラの原因は全てアリスの中に還元されるからだ。 火村とはあれ以来会っていない。こちらから連絡をする気分になれないのだ。 ちょうど残業と出張が交互に続いていたというのもある。 物書きとしては不幸で、思うようにプロットを編めない。 新人賞の締め切りは来週だというのに、書きかけの1本は進捗なし。 絵本の虎みたいに、ぐるぐる木のまわりを高速で回っているようだ。 抱え込んだ重荷ごと、このままバターになって溶けてなくなってしまうのだろうか。 最近、留守電が気になってしょうがない。 帰宅した時、点滅するボタンを見ると動悸が走り出す。 こわごわ再生して、どれも火村からのものではないことがわかると息をつき、そしてうなだれた。 なにかの猶予期間が延ばされたようで安堵して、安堵する自分に悲しくなるのだ。 一人暮らしに疲れ始めた時、友人からのメッセージは小さくて暖かな慰めになったというのに。 あんなにも、心が強くなれたのに。 この日、午後イチに直行した工場で入稿を受けた。 別件で来ていたデザイナーが打ち合わせの途中で抜けてくれて、慌ただしくロビーでデータの入ったMOや刷り見本を渡してくれる。 大阪郊外にあるので来るのは面倒だが、両者の都合が合えば、営業所にバイク便を飛ばすより工場で入校した方が早い。データ室で中身が大丈夫なことを確認してもらい、OKが出たらそのまま預ければいいのだ。 壁際におかれたソファで直帰するという連絡をしていると、別室で打ち合わせを終えた営業マンとクライアントと思しき女性がくすんだリノリウムの床に滑り出てきた。 聞き覚えのある声に、はっと顔を上げる。 彼女だ。よく磨かれたパンプスから上をたどると、アリスの動きに呼応するように、見つめられた相手方も顔を向けた。 「有栖川さん」 「……お疲れ様です」 『いつもお世話になっております』という常套句がうまく出てこなかったのにほぞを噛む。少し間をあけながらも、なんとか声を出せた。 「ご無沙汰ですね。あら、有栖川さんお痩せになりました?」 かのジュエリーカタログの担当者であった栗林女史は、挨拶だけで立ち去るかと思いきや、感じ良く話しかけてくれるものだからなんとなく駅まで同行することになる。 気まずさが先立っていたアリスだが、道々ジュエリー展示会のことやカタログは評判が良かったとか伝えたかったけれど、担当が変わったから機会がなくて残念に思っていたことを伝えられて、ようやく強張っていた肩がふわりとほどけるのを感じた。 降り注ぐ日差しの穏やかさにつられ、二人とも少しくだけてきた。 何度も面会を重ねても、社屋の中ではこうはいかない。 彼女も自分も仕事という監視人に見張られているからだ。 「もうお会いできへんとおもうてました。向ける顔がないちゅうか」 「そんな。有栖川さんにはお世話になりっぱなしでした。写真の差し替えも、こちらの予断で最終稿にはっきりと赤を入れてなかったのもいけませんし」 「栗林さんに詫びられたら困りますわ。ミスはミスです」 「そんなご自分に厳しくなさらないでください。個人的にはお礼がしたいくらいなんですけど」 そうだわ、と駅前の交差点で女史は何かを思い付いたらしい。時間に余裕があることを確かめあうと、そのまま駅の正面口を素通りして、線路沿いへといざなわれた。 「お茶していきません? コーヒーぐらいごちそうさせてください」 「おごられる理由がないんですけど……」 「カタログづくりのしょっぱなに、私がジェネリックを大間違いして有栖川さんを夜の12時まで残業させてしまったんですよね。お茶のひとつもさせていただけないと、一生後悔しそうです」 「そういやそんなこと、ありました。忘れてましたわ」 つぶやくと、アハハと今まで見たことのない豪快さで笑われた。 仕事という監視人がいなくなったら、彼女の中から存外ざっくばらんな本性があらわれて驚く。 そして案内されたのは、白い外壁に木を使った内装がほっとさせてくれるオープンカフェだ。 一人でランチする女性、ベビーカーを脇に談笑するお母さんたち、お茶を楽しむ老夫婦などで賑わうが、間口が広いためか開放的で窮屈な印象はない。 白い手に背中を押されるまま、歩道からそのままテラス席に入って腰を掛ける。 差し出されたメニューには、食欲を刺激する軽食メニューが並んでいた。 本日のランチはエビとアボガドのピタサンド、5種の豆を使ったポークビーンズ。うまそうだ。ふわりとチーズのとろける香りが厨房からただよってきて、空腹感に襲われる。 お腹の鳴る音はごまかせず、結局ランチを注文ということで押し切られた。 栗林が改まった顔で言った。 「今まで言う機会がありませんでしたが、有栖川さんにはよく助けていただきました。営業の方がコントロールしてくださらないと、あのスケジュールは少しも回らなかった。ずいぶんお世話になりました、ありがとうございます」 ストレートな褒め言葉に、不覚にもじんとした。 そんな風に見られていたとは。 人生の中心に仕事があるだなんて寝言でも言えないが、この身を切って働いているのだから、プライドはやはり自然発生的に存在するし、しくじればそれなりに気が重い。 会議室で頭を下げたときは、なにやら理不尽に怒鳴りつけられているような心地もあったので、いっちょまえに落ち込んだりした。 火村とのこともあり、仕事で落ち込む余裕もなくなってしまったので、「ようやく報われた!」という感動はない。 けれど、カーテンも開かず部屋に籠っていた人間が、チャイムの音でドアを開け、訪問者越しに綺麗な青空を見つけたような、風が吹き抜けるような、えもいわれぬ爽快感をいま掴んでしまった。 働く人間の多くがこの感じに支えられて、苦い折衝やノルマを乗り越えているのだということくらい、アリスだって知っている。 でも、営業は正直好きじゃない。全て義務でやってる人間に、こういうご褒美は心の奥底まで浸透しないだろう、と。 再びこんな気持ちになれたのは、自分が変わったせいではないだろう。 心が揺れるタイミングだった、ということか。 目の前のクライアント、一度も会ったことのないカメラマンさん、数回会っただけのデザイナーさん、刷ってくれたウチの技術屋さん。 真にどんな人間なのか知らないけれど、彼等が手をかけて完成させた刷り見本の感触を、いとおしく思い出せる。 「こちらこそ、一緒に仕事させてもらって、ありがとうございました」 突然そんなことを言い出したアリスに驚きもせず、栗林は華が咲くように笑った。 ちょっと感傷的だったな、と照れながら食後のエスプレッソを口にしたところで、アリスは固まった。 視線の先には、大学にいるはずの火村がいた。 その隣、というかぴったり腕に絡み付いているのが、これまたたいそう可愛らしい女の子だったものだから、開いた口が塞がらない。 間抜けな顔をしていたと思う。 なぜ大阪郊外に? という疑問に答えるように、春色のワンピースが目の前で揺らめく。 そうか、デートなのだ。 向こうが先にこちらに気付いていたようで、はっきりと見つめ返すとぷいと目を逸らされた。デートを親に見つかった子供みたいだ。 アリスも隣の女史に視線を流した。見ていられないと思った。 ちらりと目にしただけで、彼のはいているものが学部生時代から愛用しているジーンズだと気付いた。今にも膝が抜けそうになっているのを知っている。 よそ行きにあれをはくのはどうかな、と心中で突っ込みいれつつ、栗林との会話を笑みを崩さず続ける。 あの子と俺って『兄妹』になるんかなぁ、おんなじ男と寝たもの同士やから。ってうわ、おっさんの冗談やなこれ。 なんて不謹慎な発想をせずにおれないほど、心臓が駆け出しそうに騒いでいた。 |
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