3.
午後の講義を終え外に出ると、空が白く濁っていた。
折り畳み傘をトートバッグの中に確認できなかったけれど平気だった。借りるアテはあった。
夕刻を過ぎても止む気配のない雨は、夜中まで続くことを予感させる。
僕は北白川の下宿へ足を運んでいた。一緒に飲みたくなって火村を訊ねて行ったのだがまた不在で、前回同様大龍と膝を突き合わせて座っていた。
「恋愛相談にのってください」
と黒い瞳の彼は僕なんかに縋り付いてきたのだ。
コンタクトレンズに変えたついでに、気になるあの子に接近したいんですがどうしようどうしよう、という答えの見つからない話に付き合っていた。
彼のテンションは、もしやフォーチュン・クッキーの効用だろうか。だとしても、大龍レベルになるとからかうのも気の毒になる。
色々気が回る人間ほど切っ掛けが欲しいのだ。気持ちを確信するために、それこそフォーチュンクッキーのようなのひとことを、自分の中にみつけるために。
僕は適当におどけたりからかったりすることにした。彼の自負が傷つかない程度に相談内容を無視し、関係のないバカ話を飽きることなく続けるのだ。
当方の貧相で答えのない恋愛話を引き合いにだしていたら、ミイラ取りがミイラになる。
しかしなぜ、他人の恋愛話は面白くてもどかしくて面倒くさいのだろうか。
「ってこともあるけど、やってみんとわからん」
「はい、そうですよね。でももし」
この繰り返しなのだがつい話し込んでしまい、気付けば安酒とつまみの乾きものと魚肉ソーセージのシールでちゃぶ台が一杯になっていた。
酒は水で割って氷を浮かべており、ちょうどよく冷えている。
この下宿隙間だらけのくせに湿気はすごいので、ぐいぐい飲んでしまっていた。
ペースよく飲んで酔いすぎそうなので、途中、立て付けの悪い窓を開き闇夜に首を突き出して息を吸った。濡れた土の匂いが鼻腔を充たした。
「明日の朝まで降りそうや」
外灯が紫陽花を照らしている一画に目を凝らすと、驚いたように立ち止まる誰かの影を認めた。
「火村!」
待ち人来る。呼んで手を振ってから、こんな静かな街で大声を上げて「しまった」と思った。
多分もっと恥ずかしかった火村はきっと「バカ」とか呟いているに違いない。傘は揺れながら、眼下にちらりと見える玄関へと吸い込まれて行った。
この夜は、火村は家庭教師のバイトだったようだ。
いつかのようにミシミシ廊下を唸らせ、当然のように大龍の部屋に踏み込んでくると、
「おれも飲みたい気分だ」
と勝手にコップへ酒を注いだ。開封済みのバーボンを持ちこむあたり火村っぽい。
そうして恋愛話など全く向かない火村を交えた飲み会は、当然あっという間に別の話に転がり、日付が変わる前に大龍も転がった。
「アリスを相手にしちまったのが運のつきだよな、かわいそうに。二日酔いにならなきゃ良いけど」
適当に周囲に散らかる空き袋や缶を片付け大龍を布団に寝かせる、という面倒見のよさを火村は発揮し、ついでに僕のことも引き取ってくれた。
「せや、明日1限やねーん。ひむらおこして」
「自主的に起きろ」
ふたりも寝る場所などないのだが、僕は酔った頭でせっせと煎餅布団の隣に座布団を並べむりやり寝転がる。これで掛け布団を半分わけてもらえる。
気温は低いのに、湿度が高い。ふたりぶんの体温を含んだ空気は温く、明かりを落とした部屋を満たす。
ふいにイツミの店の風景を思いだした。
「なあ、おれのダチの店行ったんか?」
「行ったよ。珈琲は美味いけど、なんであの店じゃないと駄目なんだ?」
やっぱり火村だろうとは思っていたが、そんな質問は想定外だ。
「駄目ってことやないけど、珈琲代だけでペーパーバック読めるんや。お得やろ。しかも居座り放題」
「古書店で安く買えるのに?」
「それもそうやな。あそこにあるの全部探すの大変やけど。手近なところにものがあるんや。
行けばイツミのためになるし、珈琲代ぐらい友情で払うてやりたいし」
「ふーん。昼は食ってるのか?」
新刊5冊のために1週間以上昼代を削ったことがあるので、暗に同じ轍を踏んでいないかと言ってるのだろう。記憶力のいいやつは厄介だ。じじいになっても繰り言で笑うに違いない。
「月2回の珈琲代も出せへんほど困ってへん。きみの心配、そのままそっくりお返しするわ」
「ならいいけどさ……」
「誘わんかったの嫌やった? 単にこっちとそっちの都合が合わんかっただけやしなぁ
……つか店がわかったんなら話は早い。通ってくれ」
「なんで一人でそんな店に行かなきゃならねぇんだよ」
「もし気に入ったんならの話や。もう、なんでそんな睨むん?」
「生まれつきだ」
そう言ってふいっとそっぽ向く火村はまるで子供みたいだが、子供じゃないので可愛いとか思えない。
けんもほろろな口調に、段々軽口がつっけんどんになってゆく。
どうして僕らはナイフ入りの酒を飲ませあってるのか。冗談に紛らわせても、過ぎると面白くない。こんなふうに感情的になりたいわけじゃない。
どこで茶をしばこうが僕の自由だし、いつか火村を誘いたかったのは確かだったのに。
「いこじなやっちゃ!」
僕は非暴力主義である。むかっとしても腕力に訴えない。
だから平和的に火村の胸を揉んでやった。勿論両方だ。
ぎゅっと指で掴んだ途端、「ぅわ! やっ、めろ」と聞いたことのない妙な声を上げて跳ねた。硬い胸板の感触なんて楽しくないけど、身を捩って嫌がるさまがなんか可愛い。
「君の小言と鬱陶しい暑さとで寝苦しいわっ。除湿器がないなんて最低やぞ」
「それでどうして……! どけっ手が熱い」
しつこくしていると、薄掛布団を蹴りあげん勢いで飛び起きた火村に不埒な両手を掴まれ、「せっ」と突き飛ばされた。疲れたので素直に倒されておくことにする。火村の息がちょっと荒い。くすぐったがりなんだな。
「明日2限からやから、始発で帰って風呂いりたいに……ああ寝られへん」
そうしてわざと埒の開かないことをぐずぐず言って寝返りを打った。
火村はツタンカーメンのように真上を向いてじっと横たわっていた。すごいな、寝相もツタンカーメン並みだろうか。
「うるさい。目を閉じてたらいつかは寝られる」
「いつ」
「どんなに眠れないと思っても、勝手に落ちるから安心しろ」
投げやり、ではなく柔らかく諭すような声に、うろついていた視線が天井でとまった。
落ちるように眠った日が、何度もあったような口調だ。
火村は夢見の悪いことがあるらしく、「なんや呻いていとったなぁ」くらいしか印象にないが、事態は僕が思うほどお気楽なのではないのかもしれない。
ある時、目にした、布団を被りなおす火村の姿を思いだす。
夢が、捏造された妙なフィクションではなく、叫ぶほど嫌な過去のことだったりしたら、きっと『眠れない』。
眠れない……眠れない。
雨が部屋の中まで侵入ってきたかと思うほど、水の音が長く近く、耳の奥でこだまする。
「寝た?……」
規則的な呼吸音に、独り言は儚く解けていった。
*
前夜、アリスとはっきり約束を交わしたわけでもないのに律儀に早起きしたおれの体は、『生理的な不随意の』とは言い難い興奮状態にあった。
いま、朝の、5時だっつの! ドキドキして目が覚めたなんて、あ り え ん。
おまけにこの…下…。
自分の隣で横向きに眠る友人の寝息は酒臭いし、風呂に入ってない体からは年頃の男らしい匂いが微かにしたが、『甘く薫る』と修飾表現してしまいたい位自分の欲望を直撃していた。
あどけない顔で眠りこける21の男の朝だちって、こんなに目を奪うものなのか。んなわけねぇっつの。
でも滑稽でむさくるしい、とは思えない。
この寝姿をたとえるならアルプスの岩清水だ。緑の中で輝く水しぶきのように眩しく自然美に溢れていて、ひたすら愛でていたい。自然万歳。
少なくとも今現在、目の前の安い座布団の上で「クカー」と子供みたいな寝息を立てる存在が世界の中心だった。目がおかしい自覚はある、放っておいてくれ。
と、こんな際どいことを考えているとはつゆ知らず、アリスは平和に眠っている。おい、始発で帰るんじゃねぇのかよ。
ぷくんとした唇からスースー寝息こぼして呑気なものだ。
口紅なんかイミテーションだと思わせる色のそこは、磨かれた珊瑚のように見える。横たわるはシーツの波。
ならば、今すぐセルリアンブルーの海で一緒に溺れたい。普段なら思うだけで憤死しそうな妄想だが、おれの世界が起き出す前なら心の底から素直になれる。
この額、この顎、この腰骨。
不健康に真っ白で、縦にばっかり伸びた体を抱きしめて、深いところに沈んで水の音だけ聞いていたいんだ。おっとこれは比喩表現であって、マジで土左衛門になりたいわけじゃないんだぜアリス。
一瞬のモノローグに我を忘れ、ついふらふらと唇に触れようとしていた指を慌てて引きはがす。
この口に針のような言葉を吐かれた。昨夜の戯れごとを思いだした。
大きな榛色の瞳を見開きムキになって言ってたんだろな『イツミのために』。
おれらしくないという自覚はあるが感情を止められず、どれだけイライラしたことか。
アリスとの関係をすぐにどうにかできないのはわかりきってるが、変わってほしいあまり意固地になって。
思いだすとまた喉の奥を掻きむしりたいような感情が走って、泣きたくないのに泣きそうだ。そんなにあいつに懐かないでくれ。
菩薩のような笑顔の店主は少しやばい気がする。この前偵察に行った時うっすら確信した。
柔らかな表情から、時折覗く潔く清冽な内面を思わせる言葉選び。アリスの隠された魅力である、物語に取り付かれた顔に気付き、それをさも愛おしい一面と評した時には「とられる!」と戦慄し鳥肌が立った。
実に好ましい店だった。気に入ったものは長く愛用するほうなのだろう。手入れの行き届いたレコードプレイヤーは、スムーズに動いていた。古いながらきもちのいい空間だ。
故に、やばいと思うのだ。
なにが悪いってわけじゃないが、おれにとってあいつは今そこにある危機だ。
アリスを見る目が愛でるそれだからといって、すぐ同性愛に結びつけるのはどうかと思うが。
おれの勘が告げるのだ、やつは男でもアリの人種だと。
ふたりを引き離すため可哀想なことをしても目的のためならいいかな、と思うが、全てを知れば頑固で激情型なあいつのことだ。数少ない昔の友達なのだろうから、アリスは悲しみ腹を立てて絶対絶対おれが泣かされる。
いや別に泣いてもいいがアリスについては無血の勝利をおさめたいので、イツミから引き離すという作戦も取りづらい。
ちくしょ、しょっぺぇな。
ここまで思考をめぐらせて、ハァ、と溜め息をつく。
アリスを早く起こさねばならないのだが、前の女以来発散していない本能のうねりが嫉妬で加速し、下半身を重くしていて動けない。
女といえば、明らかにアリスをダシに近づいてきた女子をなんとかしないとな。
まあまあ悪い子じゃないが、おれの心のどこにも響いてこない。
どちらかというとアリスが好きなタイプだ。
臭いものには蓋をしたいが、関わったアリスが道連れになることを考慮すると、早めになんとかしなければ。万が一アリスに鞍替えしたら地獄だ。ああ、おれの勘があたりませんように!
そんな萎えることを考えつつ、膨らみがおさまるのを待ってから憎いやろーを蹴り起こす。
座布団の外へ転がしてやると、「ぶぎゃ!」と変な音がした。
悪いな、こうしないと駄目なんだ。
手で触れたりしたら一日中あらぬ妄想がちらついてしまうんだよ。
*
火村に言われたせいじゃないが、手元に小遣いはあるのに梅雨に入ってからこっちイツミの店から足が遠のいていた。
この数週間、某出版社の新人賞に出すための新作づくりに没頭していたからだ。
だがその生活も先週まで。週明けの今日、火村のチェックも通過した可愛い可愛い作品は、ついに僕の手を離れ郵便局の集荷窓口の向こうへと羽ばたいた。そのまま入賞まで飛び続けてほしいものだ。
自転車に乗ってから、キャップを被らなかったことを後悔する。
睡眠不足の目に表の光は眩しすぎるのだ。梅雨が明けて太陽がぐっと近づいたのだろう。
ペダルを漕いでいると、降り注ぐ光線で手の甲がじりと焼ける気さえした。
出すものを出して解放感でいっぱいになった僕は、書き上げたら自分へのご褒美にちょっと高めのマンデリンをオーダーすると決めていたので、イツミの店へ直行した。火村は朝から掴まらないので一人でだ。
「有栖川、言うたら悪いけど悲愴な顔になってまぁ。目だけギラギラや」
「え、そうか? 普段より体は軽い気がするけど」
「実際痩せてるんやないか」
ちゃんと食えよと差し出された琥珀色の飲み物は、栄養に乏しいが香りは芳醇で、まるで珈琲の宝石だ。うっとりアロマを楽しんで口をつける。生き返る気がするのは覚醒物質のせいだけではあるまい。
緊張が解けいてゆくひと時を邪魔しないタイミングでイツミが話の穂を接いだ。
「ほんで、月岡さんゆう子は告白したんやな?」
「いや、これが慎重な子でな。まだやねん。昼飯作戦はもう7回目に突入するのに、火村がちぃともなびかんから」
今日はペーパーバックに手を伸ばさずカウンタにとまっている僕は、先月から続いているささやかな片思いの応援にまつわる愚痴をこぼしているのだ。
火村が全くその気にならないのは何時ものことなのだが、僕に「あの女は、いつまで来るんだ」とか「おれは一人で食ってもいいんだけど」、「誘ってどっか行けば」とかチクチク言うのだ。
やめてくれ、遠回しな言い方は。ハッキリ言われても困るが。
月岡さんは自分で告白するだろうから、見抜かれてるかもしれないとはいえ僕の口から言うのもためらわれ。
片棒担いでしまっている僕は、そんなことされると困る。だから火村にはいつも曖昧な言葉をかけて同席させた。
月岡さんは不安だろうな、あんな煮ても焼いても食えないやつ相手だと。
僕もいつになくはっきりしない火村の本心が分からない。
などなど、人間関係の悩みを聞いてもらっているのだ。
イツミは「青春やなぁ」と、モナリザのように達観した微笑みをたたえている。
「君かて、同じ若者やろう」
「せやけど、おれはちょっと爛れてるし、やさぐれてるから」
初夏を迎えても陶器のような肌をしているイツミの口から出た単語に、すこし陰微な妄想が膨らむ。
クラシカルな美形には、羅紗を乱すような物憂い恋愛も似合いそうだ。年上とか、許されぬ恋とか。
顔に出ていたのか「おまえも男やな」とからかってきた。妄想深い客と知ってて言ったくせに。
「火村さんは見るからに、明らかーに、モテそうやもんなぁ。でもってガード堅いとなると、有栖川に一肌脱いでもらおうと目を付けるのも仕方ないんやない?」
「しかもちょっと面倒見のよさを発揮してもうたりする、人のいい自分がいる。お役御免になるかどうかは火村次第やのに」
「人がええというか、なんというか……きみもたまには横取りしちゃえばええんや」
「火村なんかやめて、自分にしとき? あかん、笑われるのがおちやねん。様にならなさすぎる」
イツミの発想は笑えたが、実際横取りは難しいだろうし横恋慕なんかしたくもない。不名誉というか、ホンマ好きやったら、援助者の立場を利用するより正々堂々と行きたいほうだ。
「ふぅん、そういうところがますます魅力的に映るろうな。やっぱ有栖川は華があるで十分、場を彩る素質がある」
「おい、ケツかゆいこと言うて。スカウトマンみたいやで。ほんまやったら女の子に言われてみたいな、
たぶん一生ないけど」
ノリで言ってると分かってても全肯定されるとものすごく照れる。俯いて意味もなくグラスをストローでかき回していると、イツミは磨いていたクリスタルを置きその手をカウンタにかけた。
「そんなことあれへん。実はな、すでに女子を骨抜きにしてんで、君は」
そして思いがけないことを口にした。
なんの話だと、ほうけた顔を上げると、悪戯っぽい笑顔が目に映った。
「おれも恋愛の橋渡しをしたことがあってな。同じクラスの女の子に聞かされたんや、
有栖川がどれだけ魅力的で、好きなのか。今思えば、中学生だったのにマセた子やったんやな」
「え、え、え、え」
「惚気だけで一時間は持ったな」
そんなの初耳だ。あのクラスの誰だろう。
うそん、いやや、本人にぜひ言って欲しかったです、そゆことははっきりと。
「そんな切ない顔するなよ。おれも罪悪感あるんだから」
「罪悪感……? そういえば君、さっき、橋渡しって」
「そうや、キューピッド役やったんやけど、君に告げる前に、彼女は諦めてもうた」
「えっ、なんでや?」
諦める前に言って欲しかった、といういじきたない叫びが脳内でこだまする。
ひょっとしたら運命の分かれ道だったたかもしれないのだ。誰だかわからないがもし告白なんてされたら、男子校なんて選ばなかったかもしれない。だがいともあっさり、分かれ道は塞がれた。
「きみはその時、隣のクラスの秋川さんにぞっこんやったから。実際仲良かったやん?
それ知って、暫くして諦めたみたい」
「………あーそーねー。そういうこともあったかもしれへんねー」
聞いて脱力した。
過ぎた分かれ道はすでに分かれ道などではなく、やはり辿るべき道を来ただけだったということらしい。
「で、どなた?」
「もう時効やから言うたけど、名前はまだ言えへんなぁ」
「オッサンになったら教えて……」
「それまでに偶然の再会で恋に落ちるとか考えんのかい」
「あほくさ。曲がり角ではち合わせして恋に落ちるとかありえへん。
あ、でもついでと思ってちょっと聞かせてくれん? 有栖川君の何処がよかったか」
どうにもならない過去だが、興味はある。頬杖をついてねだった。
「なんだっけなぁ……優しいとか、髪の毛がさらさらで綺麗とか、俯いた首筋すんなりしていいとか、時々自分の世界にいっちゃってるのも可愛いとか言ってたかな」
「男としてその形容詞喜んでええんかな」
「ええんちゃう?」
「……なんだかな」
カッコいいとか、頼もしいとか、頭がいいとか期待してませんでしたけど、どうかな、ちょっとどうなんでしょうかこの評価。
苦笑いする僕の向かいで、イツミは実に楽しそうだ。
「あ、そうや」
その楽しげな顔のまま言葉を止め、シンクにぐっと持たれてこちらに身を乗り出し、僕の顔を覗き込んだ。
「近いで」という言葉は音にならなかった。
かすめるように、柔らかい何かが頬に触れたからだ。
空調は程よくきいている。からりとした僕の代わりに、グラスはたっぷり汗をかいていた。
思いがけない出来事に瞬きも忘れた僕は、何もなかったように定位置に戻ったイツミを凝視した。
「その子からの預かりもん。有栖川君の薔薇色ほっぺにチューよろしくって」
7年越しの任務完了、とウインクつきで笑って再びクリスタルを手にした。
それに驚愕のうめきをあげた途端、ドアベルが弾けるように鳴って僕は身を竦ませる。乱暴な客やなと抗議をこめて鋭く戸口を見ると、そこには友人が立っていたので驚きは2倍だった。
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