2.
旧年中、かなり強引に取り付けた約束は有効だったらしい。
「ギャラは? おたくプロなんだろ」
『なら、あっと驚く何かでお返ししてや』
「……読ませてもらってからでいいか?」
読んでもらわんでもええんやけど、と電話向こうで有栖川は笑い声を上げた。
これは、俺が折れるしかないだろう?
昨年末に事件絡みで知り合った推理作家から、節分を前に電話が来た。
にわか読者のリクエストに早速応えてくれたという。
東京で、ひょんなことから手に入れた黄色い表紙のノートを見たのが、すべての始まりだった。
図書館や書店で手に入れた数々の刊行物で有栖川の仕事を知り、そうするとノートに書かれた物語の続きがますます気になってきて。
ついに年末、本人を呼び出してしまった。
前回会ったときは、立場も状況も複雑だったので解らなかったが、柔らかな雰囲気と裏腹に、彼女は頭の回転が早く、思考は鋭い。
少しそそっかしい人物のようだが、それがシニカルさを中和し、全体として魅力的なのだ。
で、話を戻すが、そうした曰くつきの約束を果たしてもらった俺は、厚情に対しつべこべ言わず無条件で感謝を示すべきである。
受け渡しをすべく礼儀として、大阪まで行くと言ったら「久々に母校を見学させてもらいたいし」と、近鉄でわざわざやってきた。
研究室を珍しげに見て回ると、図書館に行きたくなったとかで、言うが早いか飛び出していった。
持ってきてくれた作品を読み終わっても戻ってこない。
俺は俺でその日最後の講義があったので、有栖川が置きっぱなしにしている荷物を気にしつつも研究室に施錠した。
講義が終わるのを見計らったように、有栖川は戻って来た。
なにやら困ったような照れくさいような顔をしているので「ファンに囲まれたか?」と尋ねると「広報に短い文章依頼されてもうた」と、ちょっと不貞腐れてしまった。顔の売れ具合は微妙らしい。
俺の事も含め、安請け合いしてプロとして大丈夫なのかといぶかしんだ。
だがこの先生が、結構イイ性格をしている事は2度話せばわかっている。
「もう読んだ?」
「あの結末はよかった。面白かった。流石だな」
「あんま褒められてる気がせぇへんのは何故」
「自己評価が低いんじゃないか、先生」
「ふん……目に見えるものを、人は求めるものや」
よっぽどあんたの方が嘘くさいよ。
だが、ちょっといい料理屋に連れて行って、素直に「美味しい」と連呼されると気分は悪くない。
いや正直なところ良い。ていうかギャラがそれでいいのか。
以後も本の貸し借りや、他愛無い話をする飲み友達としての交流が続いた。
まるで昔からの知己のように、大阪と京都を交互に行き来する関係だ。
先週のこと。
毎年世間のみならず、俺の研究室も騒がしくなるバレンタインデーに、飲む約束をした時は、電話を切った後で「しまった」と微妙に後悔した。
現在フリーの彼女をカップルだらけのダイニングバーに誘うなど、まるで「その気があります」と言わんばかりである。誰に言っているかというと、当然飲む相手の有栖川有栖に対してで。
こういう気の回し方は本来の職掌ではないのだが、毎年飽きもせず押し掛けられるようになると自覚せざるをえない。
だが30秒ほどで「勘違いしていたら質せばいい」と思考がくるりと1回転し、実際顔を合わせたら自惚れた懸念を消したいほど、有栖川はいつも通りの有栖川であった。
アレは好奇心で動いている女だ。
「スジャータって名前がどっからきてるか知らんやろ」
「知らん」と言おうものなら、コーヒーリキュールのカクテルを口にしながら、延々修行中のブッダの逸話をぶっていた。
「じゃあ、天国のはしと地獄のはしの話は?」
「え、何それ?」
妙な知識をため込んでいるくせに、こんな有名な教訓話を知らない。
知らない、と言うときの目が綺麗だ。なにもかもが新鮮に映る子どものように、透き通って瑞々しい。
かと思いきや会話の途中、ふ、と集中力が逸れる時がある。どうやら頭の中で切った張ったしていたロジックが、動き出すらしい。
俺のことなど関係なしに没入する、その表情が見たくて、頭の中にあるガラクタみたいな情報でも話したくなる。
約束して、会うたびに、心の泥濘に沈んでいた何かが音もなく輝き出すのを感じ。
俺は、最近困惑してきた。
女とは、体を重ね合たことはあっても、親友めいた領域への浸潤を許した事がないからだ。
女という生き物が元々好きじゃない。嫌悪していると言ってもいい。
有栖川だけが特別なんて言う自信はない。
だが、ひかれていく気持ちを、止める事はできそうになかった。
*
火村に本を返す約束をしていたが、「仕事が入った」と昼前に断りの電話があり、私は急に暇になった。
どうしようかリビングでうろうろした私は、大学の卒業アルバムが見たくなったので実家に戻った。
火村の顔写真を見てやろうかと思ったからだ。
あの若白髪は一体何時からあったのか、気になるではないか。
専業作家としての覚悟を決め、分譲マンションを数年前に購入してからこっち、かつてのマイルームは現在物置として使われている。
乱立する荷物の間に分け入って、ようよう卒アルを発掘した。
ちょっとワクワクしつつ、居間の炬燵で少し埃っぽいそれをぱらぱらとめくる。
誰も彼もが若い、というよりおぼこい。
何を思いだしてもくすぐったく、恥ずかしい。
火村はやはりすぐ見つける事ができた。
小さな写真だが、見ていて思わずため息がこぼれた。
今よりずっと顎のラインが細く、目から頬にかけての隆起も柔らかい。若白髪の具合は計りかねたが、際立った容貌だったことは間違いない。
人の顔を覚えるのは不得手ではない。これほど目立つ男ならなおさらだ。
なぜ記憶になかったのか不思議だった。
なんとなく自分の顔も見てみようかと思い、当たりを付けてぱっとめくると1つだけ白く抜かれた枠があった。
「なに……?」
枠の下には流麗な活字で、『有栖川有栖』とあった。
寒い。
からだが寒い。
どこかに倒れ伏している私は、爪先がどこにあるかわからないほど凍えていた。
温かい液体が額を伝ってゆくのを感じて、指先を滑らせる。
ひどく狭い視界で、赤い色のそれを捉える。血?
急に胸が苦しくなる。
何かが私を圧迫していた。
苦しい、息ができない。
………だれか。
「有栖、有栖。こんなとこで何してんの。体壊すやん」
ぐいぐいと揺さぶられて、ハッと目を覚ます。
それとともに冷えきった体を自覚して、ブルッと震えが走った。
「え、あ、お母さん? あれっ、炬燵が……?」
「は? 何言うてんのこの子はー。ここは物置やろ。はよ炬燵に入って暖まりなさい」
「う、うん」
起き上がり、体の両側を固めている夏布団とビニルに包まれた座椅子を見て、今自分がどこにいるのかようやく認識できた。
さっきまで炬燵で卒アルを眺めていたはずなのに、あれは夢だというのか?
這いずって、アルバムを引っ張り出した辺りを探ってみたが、そこには古い雑誌があるのみ。
「……うそや」
見慣れた我が家の風景が、突然異質な空間に思えてきた。
怖い、とは思わないが不気味すぎる。
だが今はそんなことよりも寒い。炬燵じゃ間に合わないだろう。
強張った体を引きずって風呂に向かう。
熱いシャワーを浴び、てのひらで震える全身を撫でさすった。
浮き出た鎖骨と肋骨。薄いヒップ。辛うじて女らしい膨らみを保っているバストライン。
曇った真四角の鏡にシャワーをかけて覗き込む。
そこに映るのは薄く脂肪が落ちた、年なりの顔をした私。
湯気のせいか、素顔の私は年下の男の子にも見える。不意に、会えないと言った電話越しのバリトンを思いだす。
短い電話はいつものこと。なのに胸を切るような孤独感が突き上げて止まらない。
火村はたぶん、本当のところ女が嫌いだ。口にはしないが、ふとした態度に表れている。
慕情を寄せる女性に見せた冷たい横顔。袖を引こうとした女の子を振り払う容赦のなさ。
私はそれを見てみないふりしてきた。
関係ないものとして、意識から追い出してきた。
「有栖川」が「アリス」になって、私は浮かれていたのかもしれない。
心安い関係を維持すればいいと、欲もなく付き合ってきたのに。ガードも高めにしてたのに。
たった3ヶ月足らずの間に、あなたはなんて深くまで入ってきたんですか。
今日、電話の向こうに距離を感じて、それだけで気持ちがドミノみたいにパタパター。
どこまでも倒れそうなんです。
彼とは、男同士ならよかったのかな。
*
そしてお互いの仕事が混んできて、連絡を取り合わなくなった。
大学が春期休暇に突入するまで、それは続いた。
火村から電話があった時、私は普通に応対できた。
クヨクヨしていては仕事して生きていけないし。
先月のぐずぐずとした感情などケロッと忘れて、雑文や掌編に没頭していた。
「久しぶりやん。ご用件はなんでしょーか」
『社交辞令も何もねぇな。早速だが、今月東京に行く予定はないか?』
「東京? あ、15と16と17日、取材で行くわ。なんかお得な情報でもくれるんか」
『その嗅覚、お見事』
6ヶ月先まで予約が埋まっているレストランのリザーブ権が、火村の手元に転がり込んできたらしい。16日の夜のコースだから、延泊の必要もない。
私は棚から落ちたぼたもちを、絶好のポジションで頂けるわけだ。
『二人で来いっていうのがコースの条件だから』
「こういう時は冗談でも『君を連れて行きたかった』とか言えんかな? まあええ、ご指名を光栄に思うわ。来れフォアグラ、白トリュフ」
『いじきたないな。せいぜいお上品に頼むぜ』
たしかに、食欲をあからさまに表現し過ぎたと思う。反省したい。
かくして東京行きの日までに、溜まっていた仕事を7割片付け、万全の体調で取材旅行に出た。
懇意の出版社に立ち寄って担当と打ち合わせをし、国会図書館で必要な資料の複写に明け暮れた。
火村もこちらに来ているらしいが、勉強会やらで忙しいようだ。
16日の夕方に私が宿泊している新宿のPホテルまで迎えに行く、とだけ上京前にメールが入っていた。
それをあてにして、街歩き用の服からそれなりの服に着替えた私は、部屋にいるのも暇なのでラウンジのソファでぼんやりすることにした。
体の調子はいいが、前回の取材旅行の事がトラウマになっているのかスムーズに寝付けない。あの目眩にも、一度久しぶりに襲われた。
行きの新幹線の中だ。何時もは広いと感じる座席が、やけに狭く思えて息苦しくてしかたがなかった。
読むつもりだったハードカヴァーから目を逸らし、眠れない事を承知で目を閉じた。
今夜の食事はきっといい気分転換になるだろう。
飲んで浮かれて熟睡しよう。
久々に足を入れたスティレットに視線を落としていたら、そこに濃い影が重なった。
磨かれた革靴に、待ち人のセンスではないなと思いながら見上げた。
驚くまでもない、火村だった。なぜ微妙に陰気な空気を背負ってるか知れないが、それでも水際立った端正さがある。
挨拶もなしに、僅かに眼球を動かし私を見た火村は、
「なるほどね」
とさりげなく失礼な事を言ってくるりと踵を返した。エスコートされないのに慣れている自分にやや哀愁だが、手をのべられるよりはいい。
いい加減、ダークスーツの火村は衆目を集めているのだから。
タクシーで明治通りを南下し、渋谷区桜台にある件のレストランに案内された。
そこは迎賓館のデコラティブな装飾とは対極的な造りで、硬質で無駄のない、ミニマルアートのような外観だった。
「ヒュー。とんがった店やな」
「中身で勝負してもらおうぜ」
軽く腰に手を添えられ、漆黒のドアへと導かれる。
今夜、嗜みではなく、まじないの意味を込めてオーデコロンを擦り込んでいるのだが、接近しても火村は何も言わない。
最初に食事した時みたいに、何か言ってくれたらいいのだが。
そんな思いも、珍しいものを前にしては持続しない。
最上階のフロアに通され、壁面の大窓から望む都下の夜景に目が喜んだ。
内装は外観ほど寒々しいものではなく、シックなダークブラウンで纏められ、穏やかなライティングに気持ちが華やぐ。
アペリティフに上機嫌になり、望み通りのフォアグラに舌鼓を打ち、完全個室なのをいい事に好き放題お喋りに興じて。
会話の切れ目に
「今日の香水は、お邪魔になりませんでしたか? センセイ」
と聞いてみた。
デザートの後だった。
「そんなもんつけてたのか?」
静かな声色に、ウソだな、と思った。でもなぜウソつくのかわからなくて会話を放り出していると、火村も溜め息をついた。
滑らかに旋律を奏でていた音楽が、不意に転調するような雰囲気に包まれる。
「じゃ、メシも食ったし。コーヒーを楽しみに行こう」
「え? 今からでてくるんちゃう」
「この店は、別室なんだ」
ナプキンを無造作に丸めてテーブルに載せた火村は、彼の背後にかかっていた垂れ幕のようなカーテンを勢いよく払った。
なんと、まだ奥に部屋があった。
その壁面を見て私は息をのんだ。
壁の一面が丸ごと切り取られ、そこから、中空に向かって透明の空間が突き出ていた。
鉄骨とガラスで造られたサンルームはバリアフリーで、床を歩いて行けばそのまま乗ってしまえる。
「このスペシャル・ヴューが半年予約待ち、の理由だそうだ。高所恐怖症じゃないなら上に乗ってみろよ」
給仕からコーヒーセットの乗ったトレイを受け取った火村は、隠し部屋のサイドテーブルに置いて、さっさとクリームを注ぎ始めた。
私は床とガラスの境界で突っ立ったまま、そっと首だけを伸ばして下を覗く。
眼下に広がるのは、奈落の底のような風景だった。
「割れたりせぇへんの?」
「床面だけ厚さ12センチの超高硬度ガラスだから、ダンスしてもいい。ビルにこんな直方体を付け足して、建築基準法違反にはならないものかね」
「あー、ひょっとして……最初の小説の、ギャラ?」
「さてね」
いつもより親切に説明してくれる火村は、澄ました顔でガラスの箱の際に立ち、コーヒーを口にしている。
猫舌だからクリームたっぷりのぬるいものにちがいない。
ここぞというときに今イチ渋くない男だな。
でもこれは最高だ。
「ぜひ『あっ』と驚いとこうかな」
窮屈な靴を脱ぎ捨てて爪先を載せた。大股で三歩歩き、一気に突き当たりまで行く。
磨かれたガラスは、押せば割れてしまいそうなほど曇りなく、夜空そのもののように境がない。
明瞭な頭では、この浮遊感を楽しめなかったと思う。
アルコールと、誰もいない部屋があってこそこの時間の価値がある。
最高に美しく、そして危険な瞬間を想像する愉しみがある。
「そろそろ帰って来いよ」
「きみもくればええ」
おいでと招く。
「こういうシチュエーションでキスしてみたい」
好奇心に紛らせて、火のついた感情を満足させてみたくなった。
わずかに片眉を上げた火村はカップを置いて、ガラスの底板に靴のまま来た。
背中から腰に手を回され、体を引き寄せられながら、今夜こうなることを見抜いていた自分に気付く。
彼にとっては、これがギャラのうちなのか、線引きを越えたのかわからないけれど。
「二人乗ったら危ないらしい」
と唇へ載せられた囁きに、そんな悲劇なら遭ってみてもいいと、逆上せた事を思った。
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レストランの建物は架空のものです。
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