3.







今までどうしてあんなに距離を保てていたのか不思議なほど、体を寄せ合って、キスを繰り返して。
硝子ひとつ隔てた奈落の底には、見てはならぬものがあったようだ。


会えなかった数週間。
毎日起きて寝るまでの時間、愛すべきものや、仕事で満たされていてもどこか寂しかった。
これは人恋しいのではなく、火村という男について悩んでいるせいだと自覚していた。
何の因果か、筋金入った女性嫌悪の男などを好きになってしまったのだ。
朴念仁ならともかく、その気があれば性欲を満たすこともあるようで。
誰かを補食する同じ口で「あんたは違う」と言われて嬉しいものか。
私だって霞食って生きているわけじゃない。
誰かに嫉妬しながら優越を感じる。
心の、落とし所が欲しかった。
否、体なのか。


『あなたの特別でいたい』
あさましさにプライドが捩れ切れそうだが、さりとて諦めることもできない。
都心の光を踏むように、爪先立って火村を引き寄せた。
足下の玻璃には、逆さまに映った二つの影。
奈落の底に吸い込まれてゆくかのような。
少なくとも私は助からない。
友人ではいられないから。








レストランを出ると、火村が宿泊しているホテルになだれこんだ。ドアはぴったりと閉まっていたが、恥ずかしい音が漏れ聞こえていないかと思うほど、私たちは奔放だった。
彼の快感に歪んだ顔がたまらない。
濡れた音を立て、内奥を擦り上げる彼の熱を貪って、私の窄まりが軽く痙攣する。
頭がそれしか欲しがらなくなる。
もう、ずっと遠い昔から、彼が恋しくて恋しくてたまらなかったような気がする。


深い口づけの合間に、瞳を覗きあう。
脳髄をとろかされるようなそれに緩んでいた頭は、

「アリス、これは、今夜限りか……?」

火村のひと言に冷水を浴びせられたように竦んだ。
涙ぐむのを見せないように頭を引き寄せて、耳に吹き込む。

「野暮。あんたの気持ちなんか、知ってるわ……」
「……」

沈黙に、彼の答えを確信する。
繰り返しながら、視界が次第に暗く閉ざされるのを感じた。
抱きしめられ、耳元で小さく囁かれた「ごめん」に、ええよと笑い返したいのに。
火村をもっとぎゅっと抱きしめておきたいのに。
きっと朝になったら彼は行ってしまうから、今しなくちゃいけないのに。



















夢を見た。
ピクチャレスクが流行ったころのイギリスみたいな風景の中、私は居た。
緩やかに広がる緑の絨毯に、羽衣のような靄がたなびく。
光り輝く天上。
神々しいまでに美しく、そして、どこか恐ろしい。
私はここを知っている。


『「福音のために、わたしはどんな事でもする。私も共に福音にあずかるためである。」コリント人への第一の手紙、第9章抜粋』


心地よいテノールが響く。


『この試練を越えて、神の望むいけにえをささげなさい』



















男の声が聞こえた気がして。


目をこじ開け、ぐるりと頭を巡らせるが誰の気配もなかった。
カーテンの隙間から朝の強い光が射し込んで、肌の色を露にする。
何も身に付けていない体を起こす。


(……俺、なんで裸なんやろ。ええと……)


軽く髪をかきあげて、ハッとした。
目が悪くなったのか、見慣れた自分の手がやけに小さい事に気が付いた。
男の割に細い自覚はあるが、いくらなんでもサイズが違いすぎる。
さらに、昨夜男の手がこの手を握り込むという衝撃映像が脳裏でフラッシュバックした。
耳元に感じた熱い息づかいまでも鮮やかに思いだせる。

「うそ」

と、呟く声が高すぎる。
不安に駆られて手を滑らせた喉が細く柔らかい。
そのまま下を辿ると、胸に、あるはずのない隆起があった。

「うそや!」

文字通り飛び起きると、洗面所に駆け込んで全身を見た。

「なんで俺、女なん……?」

みるみる顔から血の気が引く。
そのまま気を失いたかったが、鏡の中に現れた影を認めてそれどころではなくなった。

「ヒッ!あ、天農……じゃない……。あんた、ガブリエルか?」
『正解』
「夢や、なかったんか。あれは全部、ホンマに起きたことなんか!」
『残念ながら』

呑気に細めの鼻梁をぽりぽり掻いている。
鏡に、神経質そうな肩のラインをした天使が映っていた。
鏡のこちら側に彼はいない。実体をもたないのだろう。
私はこれを笑い飛ばす事ができない。


ガブリエルを認識した瞬間、本来の意識がすっかり目覚めてしまい、ここに至までの記憶とフルスピードで合流してしまったからだ。


「東京行きの新幹線が事故って、俺はあんたの言う『天国の一歩手前』に行った。なのにあんたが妙な事言って、それで……気付いたらこれや。どうして女なんや。男の有栖川有栖はあの後どこへ行った」

流石に「死んだ」というショッキングな単語は使えなかった。

『あぁ? 男の方はね、最初っからいなかったってことになってる。支障が無いように君と周りの人間に、新しい記憶を被せた。問題なかったろ?』
「酷い事をさらっと言うな。ならなぜ火村だけ俺を忘れてたんや? 俺も火村を覚えてへんかった。おかげで、エラいこっぱずかしいことを……うう」


永久歯に被せたセラミックが剥離するように、1秒ごとに記憶の封印が剥がれ落ち、火村と過ごした日々が次々と姿を現す。

出会った大学2年の初夏、それぞれの進路を決めた冬、専業作家になった春が甦るとともに、女として過ごした3か月間の記憶が、夢の中の出来事のように頼りなく傾いた。

でも夢じゃないから、自意識に食い込んで痛い。
昨夜彼女が捨てる決意をした、悲愴なまでの恋情がまだ残っている。

『バランスを取るため君たちの記憶を隠した。けれど、神が定めたとおり君らは出会い、それで辻褄はあっていた。でも思いだしてしまった』
「はっ、全能の神様のくせに記憶操作もままならんのか」
『記憶と魂についてはまた次回に。いずれにせよその体は今の魂と適合しなくなる』
「既にしてへん!」

もうかなりの精神的ダメージ食らっている私は、頭を掻きむしった。催眠術のほうがまだ親切だ。術中の出来事など、覚えてないほうが幸せである。

「お前らの目的は!?」
『言っただろう? 火村英生から純粋な愛を受け取って、神に捧げてもらうことだ』

うん? と顎をしゃくって私の体を指した。
朱の散った胸を、あわててそこらにあったタオルで隠す。

「どうやら愛し合ったみたいやん……もうお役御免にはならんのか?」

素っ裸という寄る辺なさも手伝って、抗議の声が潰れがちになるのが悔しい。

『愛って、そんな安直なもんじゃないでしょ』
「それは同意できるな。じゃなくて俺の体……」
『そろそろお黙んなさい。その体はあと7日しか保たない。いけにえを間に合わせることだな』
「このヤクザ!」

言い終わるか終わらないかで、ヤツはスッと鏡の中から消えた。
天使なんて呼べるか。ヤツで十分だ。
悪の組織がこの世から無くならないのは、きっと神が造り出しているからに違いない。

生前の意識など目覚めさせない方が幸せだったのに。と、言いたげだったヤツの眼差しに、密やかに心の奥に仕舞い込んだものを見透かす色を感じ、口に苦みが広がる。
どこまでアイツらは知ってるのだろうか。

私は、学生の頃からずっと火村が好きだった。

もし聖書どおりなら……神の国は、男同士の交わりを禁じる。
だからこそ記憶を消し、女の体に私を押し込めたのだろうかと言う疑惑の霧が立ちこめる。
鏡の中で悄然とする顔に、半ば自虐的な思いで最重要事項を投げつけた。


「何気に余命宣告されてるぞ、おまえ」


















「……ぁちッ」

舌打ちと紛う上司の声に、学習能力のついた助教は振り返りもしない。
コーヒーで舌を焼く事これで3回。漏れる溜め息はそれ以上。
慰みに煙草を吸っては脈拍を早くし、大阪という単語に数秒視線が縫い止められる。
俺は抜けない刺に煩わされていた。


あれは逃げられたと見るべきなのだろうか。


偶然上京する日が重なって、あいつ好みの粋狂なレストランでメシを食ったことまでは予定通りだった。
予定外は、コーヒーの後のキス。
急すぎると思ったが、アリスの手招きはあまりに、俺にとって甘かった。
あんな目で請われて断る事などできなかった、という下手な言い訳が脳裏をよぎるほど。

潤んだ双眸がダウンライトの光を引き寄せて揺らぎ、普段纏っている表情が実は都合のいいデフォルトである事を晒した。
誰に都合がいいって、それは、双方にとってだ。


以前、「男女間に友情は存在するか」という黴の生えた質問に「ありえるわけあらへん」と、アリスはテレビに向かって突っ込んでいた。あるとすれば、お互いにプライベートゾーンを守っているからだ。
冗談めかして「こっから私の陣地やねん」と手刀で畳を切る仕草に「人んちを勝手に分割するな」と、微妙な会話だと知りながら、そっぽを向いて流していた。
女を拒絶しながらアリスを求める矛盾を抱え始めたあの頃。
アリスだけが特別という自信がない、という思いは現にまだある。
女を受け入れられないこと。
その出発点をひきずり、アリスとの付き合いにずっとボーダーを引いてきた。
体が欲しがってるから心など打ちやってしまえ、と生理的な快感だけを得てきた『経験』は適用不可能。
そういう意味では、特別だった。


だが、手に触れて初めて絹の価値が分かるように、抱き寄せたアリスの重みに、女という事で怯んでいた気持ちは瓦解してしまった。
どこか逃げ道を与えるようなキスに、俺は追いかける気持ちが募った。
俺のために、と自惚れていいのかわからないが、不必要に纏われた余裕がたまらなかった。剥ぎ取りたいような、縋り付かせたいような。
何かを忘れている事に気付かず、背筋に沿って走るシルバーのファスナに手をかけていた。


禁欲ぶっていた自分を笑いたい程、臍から下が正直に反応して。
今夜だけだ。
そう誓って、欲しいままに求め、意識を飛ばしてもなお揺さぶって。


翌朝、疲れ切った顔で眠る相手に、まだ手が伸びそうになる気持ちを抑えるべく外で煙草を吸って、部屋に戻るとそこはもぬけの空になっていた。
俺は呆然とし、しばし考え込み、「ごめん」の言葉が伝わってるんだなと、駆け出そうとした足を止めた。
それこそ『野暮』だ。


アリスは俺が女嫌いだと知っていた。
それでなお体を開くのは、いわずもがな、寄せる気持ちがあったからだろう。
何時からかわからないが、気付かずにいた自分の目の節穴加減を罵るよりも、差しだされた手に目が眩んだ。


惹かれているならばこそ、この時拒むべきだった。
あれほど深く立ち入ってからでは、後戻りできない。
かつて気の合う女がいないでもなかったが、なぜかセックスが絡んだ途端、関係が悪くなった。
そうなった過去が、とりあえずセックスを遠ざけようとして「ごめん」と言わせた。
もし心が添うようになる未来があるとしても、友人のまま体だけ先取りする事はできないと。


できない? アリスをあれほど味わったのに。
俺は矛盾している。
女への拒絶感と、アリスを想う心、欲しいと思う気持ち。
いずれも消化しきれず、3番目からかっさらうからこういうことになったのか。
シーツだけになったベッドに、ひっぱたかれた気がした。




「……逃げられたのか、どうなのか」


あれから5日経つが、俺はアリスに電話することができなかった。
アリスからも、ない。
あの夜のことが、ずっとひっかかってとれない。
今日で6日目。


納得しようとして3日経って、どうにかしたいと思ってから3日目になる。
理性は止めろと言うが、胸の中が駄目になりそうだ。


















初日、東京から帰ると、真っ先に電話のジャックを引っこ抜いた。


2日目、中編の最終稿のチェックを終わらせ、こちらから連絡をとった。要件は早めに片付けるべし、だ。「わざわざすみません、担当思いの作家さんをもって幸せです」という言葉に、笑いを返すしかなかった。
メールでいくつか雑文の依頼があった。
普段なら喜んで引き受けているところだが、当たり障りのない理由をつけて断る。


3日目、「明日から資料収集に行きますので、留守します」と、念のため片桐さんに連絡をする。
これでしばらく連絡が来る可能性はなくなると、安心すらしていた。
懇意にしてもらっている同業者のアドレスを開いて、誰かに何か書くべき事がないか迷った末、そのまま閉じた。
最終日に何も起こらなかったら、恥ずかしいではないか。
家の整理をし始めたら、あっというまに4日目が過ぎて行った。


5日目は、やる事が無くなって、ついに涙が出てきた。
学生時代の他愛もないじゃれ合いや、会社員時代心強く思った火村のひと言など、過去の事ばかり拾い上げて涙腺を緩くしていた。
そして、なぜこんな妄想じみた事に囚われて、友人との接触を断ち、愛すべき仕事仲間からのメールにも答える事ができないのだ、と嘆いた。このような理不尽な甦りがあってよいものか。考えうる限りの悪口雑言をこめて、天を冒涜した短編を書いても憂さは晴れない。
体が適合しなくなる、というのはこんな風に精神的にやられていく事を指しているのではないだろうか。


肌に散った紅色のしるしは、もう薄れていた。
長い付き合いから、火村は確実に女嫌いといえるが、女を抱けないわけじゃない。
その証拠を鎖骨の上に乗せて、複雑な思いにかられた。


こんな肉体に残された情欲ではなく、ありえないほどの短期間で「火村の愛を」捧げよ、とヤツは言った。
もっと長い時間があれば、どうだろう。
火村が女嫌いだろうと、私は友人として側に居続けるつもりだ。たとえ何があっても、遠く離れても、彼と共にあろうとするだろう。


なぜこんな風に確信できるのか。
それは、遺伝子の循環を生む「女の体」というアドバンテージがなくても、そのつもりでいたから。
犯罪を見つめる眼差しに、傾けるエネルギィに、私は崇高ささえ感じながら同時に危うさを嗅ぎ取っていた。
興味を惹かれて止まない友人を、あらゆる状況が許す限り見守っていたいという決意をしていた。
そうして二人で時を重ねるうち、友情がもしかしたら男女間の情愛へと流れてゆくかもしれない。


だが、たとえ望む方へ導かれたとしても、やはり彼の愛を「いけにえ」として渡したくはない。
自分の愛を神様に捧げられた、と無神論者の火村が知ったら大層ショックだろう……というのは冗談のような話だが、核心でもあって。
人間を裁いていいのは人間だけだ、といつか火村が口にした言葉が耳に残っている。


地上の罪は、地上の罰を。
ならば彼の愛は、彼の情のままに。
ましてや、あと僅かでこの体と私はお別れらしい。


もし愛が可能であっても、別れはすぐそこなのだ。
誰かを受け入れて愛おしいと思った矢先、不条理に振るわれたナイフで切り離されれば痛いだろう。
大抵その傷は愛以上に深いものだ。火村にとってあまりに惨い。
………なにより私が耐えられそうにない。


色々お為ごかしに並べてみたが、自分こそ欲しかったものを、この体で求めるのは嫌だった。
学生時代のない私たちなど嫌だ。
肩の線が並ばないことにさえ腹が立ってくる。
友人でよかった。
友人でよかったのに。
あいつのキスなんか覚えさせやがって。
おもわず唇をなぞるクセがついて、溜め息ばかりしてしまう。


真っすぐだった思考が、感情に染まりながらスパイラルしてきた。
私はこれほどまでに火村に執着していたろうか……私らしいやりかたで、執着していたのは認める。
けれど、こんな腰骨から後頭部が頼りなくなるほどの思いが吹き出すなんて一体何故だ。
女のときの『情念』か。
まるで普通の恋をしていた、彼女のパワーなのか。
男の身では、叶えようがなかったあり方を体現した、もうひとりの私の。

あの夜、「ごめん」と言ってくれて良かった。
電話したがる指を、会いに行きたがる足を、諦めで縛り付けておける。

















ここ数日私は眠る事ができなかった。昨夜は強い酒を少しあおって、夢と現実の合間で溺れるように意識を黙らせた。
睡眠不足のせいで色々億劫になったので、私は「御飯ちょうだい」と実家の敷居を跨いだ。
玄関で出迎えてくれた母は、ムンクの『叫び』のように嘆く。

「いやぁ有栖、えっらい面やつれしてん。どないした?」
「忙しくて寝てへんだけ。大した事やない。はいお土産」

福岡の物産展で、大好きな辛子明太子とお饅頭とを求めた。
その時の事をふと思う。デパートの人もちょっと引いてたな、そういえば。ファンデーションでは上手に隠しきれなかったらしい、目の腫れと隈。


今日で数えて6日目。


断じて最後の晩餐をしにきたわけでも、今生の別れを言いにきたのでもない。








懐かしの我が家で夕食をとっていたら、バッグの中から着信音がした。

「有栖、電話で?」

父に「早うでんか」と突かれる。
無視してしまいたかったが、「電話は出るもの」と思っている50代夫婦に妙な勘繰りをされるのもかなわない。
しぶしぶ席を立って廊下でフラップを開く。
火村からだ。
驚いてそのまま閉じた。

「なんで今」思わず声にするつもりのなかった戸惑いが口をつく。手のひらで音を立て続けるそれを包み込んで、両親の耳に届かぬよう洗面所に逃げ込んだところで切れた。
もう鳴らないように、電源を切る。

『なぜ火村英生の元へ行かない?』
「ッひ!」

ごく見慣れた洗面台の鏡の中、突如として現れたアイツ……ガブリエルに飛び上がる。

「アホっ、心臓止まるかと思うたやん」
『洒落になってないぞ? それよりさ、なんで地上の民ってこうもややこしいのかな。君ら2人は記憶を無くしてなお出会ったんだよ。その意味深さわかってるか?』
「神の仕込みやろ」
『嘆かわしい。火村を好きな気持ちも、操作の上だと?』
「……そこまで自分自身を否定せぇへん。でも、嫌や」

突っぱねると、ヤツは軽く肩を竦めた。

『あと1日なんだけど』

唆して、言う事を聞かねばカウントダウンか。告げられた日数に、胃の辺りがズンと重くなった。

「わかってる。けど嫌や。大体「ごめん」てお断りされてんで? それを7日で覆せっちゅうのが無理な話やったんや」
『おーお……「汝よただ疑わず、信仰をもって願い求めなさい。」ヤコブへの手紙、第1章抜粋』

おまえは聖書の引用無しに喋れへんのかい。
その言葉を投げつけた矢先、ヤツは姿をくらませていた。









実家でさえ安寧の場所ではなく。
夕食をもらって、あまり遅くならない時間に夕陽丘へ帰った。
郵便受けには幾つか配達物が入っていたので、それを取り出して……切手のない封筒を見つけ、おもわず背後を振り返った。
オートロックに守られた、無人のエントランスに、見る筈のない黒い影を探す。
ここに手紙を投げ入れた差出人は、もういない。
込み上げる落胆を溜め息で振り払い、エレベータに乗り込みながら問題の封書を開く。


『明日の夕方6時に行く。もし都合が悪ければ電話をして欲しい。火村』


会いたくても会えない相手が、ここまで来ていたという事実に息がつまる。
天を仰ぐのは癪なので、塩ビ製のシートに視線を落とした。
そうこうしてるともう7階だ。

あと何回これに乗るのだろうか……いっそここから先が天国だったら。
それとも、クラシックロックファンとしては、やっぱり階段で行くべきか?

 













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天国への階段/LED ZEPPELIN。すいません…ハピエンです。痛いのもあとちょっとです…。

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